皇帝の指名をしたのは、中国近代史のラスボス・西太后。 ただの外国人居留地ではありません。 おそらく溥儀にとってもっとも幸福な結婚生活だったのではないでしょうか。 溥儀はジョンストンから受けた近代的な思想を受けました。 同時に戦犯として、中国・撫順の政治犯収容所に収容されます。 袁世凱は溥儀とも因縁深い人物だったのです。 その単語だけが頭のなかでひとり歩きしますが、そもそも張作霖とはどんな人物だったのでしょう? その犠牲者は2000万人とも8000万人とも言われます。 彼がはじめて自分の意志を通したのは、満州国皇帝即位を決意したときだったと言います。 1900年には〈義和団の乱〉。 満州は特殊な地域になっていました。 中立をとった中国に対し日本は〈対華二十一箇条要求〉を突きつけました。 もう一度新たな国の皇帝に即位。 その暴走の成果の一つが〈満州国〉。 つまりふたたび清国を復活させることです。 統計が残っていないため正確な数字ではありませんが、数千万の人の命が失われたのは事実。 西太后と愛新覚羅溥儀は血縁関係があるのですか? なかなか検索がヒットしなくて、てこずっています。 西太后が溥儀を皇帝とした理由、王朝の滅亡から満州という傀儡国家で溥儀がまつりあげられるまで … 腐敗の深刻化していた清国内部では革命勢力が増長してきました。 若い溥儀少年はみるみるうちに知識を吸収し、近代的・西洋的なスタイルを身につけていきます。 儀式とレセプションの連続、皇族・公人として生きてきた2人はこの場所で、ある意味一番「人間らしい」生活を身につけたのかもしれません。, 1959年「思想改造」を終えた溥儀と溥傑は、中華人民共和国の国民として特赦で釈放されます。 側室は12歳の文繡です。 クーデター〈北京政変〉により、溥儀はじめ皇帝一家は紫禁城の外に出されます。 高い文化教養を身に着けた溥儀は研究員として静かなつましい生活を送ります。 しかし作られる必然性は一体どこにあったのでしょう? この事件は〈関東軍〉の犯行とされましたが〈関東軍〉は否定します。 北京中国,清朝,咸豊帝の側室で,同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇太后のこと。エホナラ (葉赫納喇) 氏の出身。咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王奕 訢とはかり,クーデ … 1906年2月7日、北京市内で溥儀は生まれます。 民主化運動〈辛亥革命〉が1911年に勃発。 ガンは末期にまで進行していたのです。 溥儀に関わった人びとも危険にさらされます。 転機は生まれてまもなくやってくるのです。, 生まれてほんの2年と10ヶ月で、溥儀は人生の大転換をむかえます。 溥儀よりも1歳年上。 アロー戦争のゴタゴタの中で咸豊帝が崩御した後は、その後に即位した2人の皇帝の後見という形で権勢をふるいました。 それぞれ名門家の王女でした。 日本の権益を守るために作られた国なのですから。 1932年3月1日、満州国建国。 〈上〉 世界三大悪女の一人とされ、「残虐非道の女帝」のイメージがつきまとう西太后(慈禧大后)。だが、実は当時の4億人の民を率い、47年にわたって統治を続け、中国近代化の基礎をつくりあげた、辣腕の政治家だった。 その先にあった結末はみなさんご存知のとおりですが……一度戦争への坂を下りはじめた日本は、ついに止まることができませんでした。, 日本史の教科書で覚えさせられた〈張作霖爆殺事件〉。 知識人はもちろん、海外の中国人(華僑)や兵士たち、一般庶民までもが『満州駆逐、中華回復、民国建国、地権平等』のスローガンを掲げて中国全土で立ち上がりました。 愛新覚羅溥儀を戴くことによって国の正統性を強調したのです。, 〈満州国〉建国からまもないある日。 日本とも一時、協力関係にあった張作霖。 ガンでした。 しかし溥儀の父の醇親王はこの軍人上がりの政治家を疎ましく思い、一時失脚させました。 その中で出会った「チキンラーメン」に、つましい生活の中の幸福を感じられていたのでしょうか。, 1967年10月17日、清朝12代皇帝。 ジョンストンは紫禁城にはじめて入った西洋人でした。 〈関東軍〉はやがて暴走に向かっていきます。 〈義和団の乱〉において、秘密結社〈義和団〉が西洋人やキリスト教徒を殺害するのを黙認するどころか、西洋にむけて宣戦布告したのも彼女。 元来聡明な皇帝は紫禁城の改革を実施。 外の世界は荒波たつ場所でした。 「資本主義打倒」を掲げ、インテリ層や反毛沢東勢力を根絶やしにしようとした、権力闘争です。 この頃、溥儀は弟の〈溥傑〉とも対面を果たしました。 西太后 (せいたい ... 西太后ってどんな人?波乱万丈な人生と食事の関係. 中国はまだまだ混乱の中にいました。 「自動車を持っている皇帝」中華民国の大統領・袁世凱は実際に皇帝の座についた男でした。 彼女の頭にあったのは次の皇帝の座でした。 「溥儀閣下」「朕は皇帝である」と溥儀は激怒します。 満州を拠点として活躍。 つまり、あやつり人形です。 ……が、事実〈満州国〉のトップは、たしかに溥儀ではなかったのです。 世界は変わりつつありました。 しかし戦争のドサクサで日本は〈対華二十一箇条要求〉という不平等条約をふっかけました。 1919年、13歳の溥儀の帝師(家庭教師)として招聘されます。 シンプルに説明すると「満州地域を管轄する軍隊」。 西太后の信頼篤い人物で、また彼の従える軍事力をバックに政治家としても活躍します。 加熱する〈文化大革命〉のストッパー役として政治的に機能していた周恩来。 すべて大人たちの決めたことでした。 白羽の矢は立ちました。 写真に残っている婉容は、絶世の美女の名がふさわしい女性です。 前半生においては紫禁城で、儀式に近い豪勢な食事をとっていた溥儀。 「男して生きる」と決めます。 溥儀は6歳にして退位します。 日本の高官が溥儀のことをこう呼びました。 1908年、西太后は崩御。 溥儀が皇帝の座につきます。 溥儀の先帝・光緒帝は西太后に先立つことわずか1日前に亡くなっています。 光緒帝は西太后が毒殺したという学説が現在では有力です。 辛亥革命――〈中華民国〉の誕生、最初の退位 他の列強と同じく大陸に勢力進出をした日本は、満州を重視します。 甥の光緒帝に代わって権力を握った西太后。 光緒帝は彼女を大変恐れており、彼女の承諾無しでは何もできませんでした。 そして、西太后は、政治的には清朝の保守派官僚の代表として、光緒帝ら革新官僚が 1898 清朝を作った愛新覚羅氏の正統な子孫です。 改革運動〈戊戌の変法〉を弾圧。 紆余曲折をへて溥儀は、天津にあった日本の〈租界〉におもむきます。 紫禁城を出てからも上流階級として生活し、〈満州国〉でも皇帝の権威のために裕福で恵まれた生活をしていました。 日本は第一次世界大戦で日英同盟を理由に参戦、ドイツに宣戦布告をして、青島(チンタオ)はじめとしたドイツの〈租借地〉を日本のものにしました。 重要な政策はすべて彼女が決めていた清国。, 強大な権力を握った西太后でしたが、ついに死の床につきます。 晩年溥儀は日本のチキンラーメンを非常に愛好していました。 嫮生さんは愛新覚羅家の血は引いていますが、実は溥儀の子ではありません。 溥儀は生涯で5人の妻を持っていますが、子供には恵まれませんでした。 溥儀には1歳年下の溥傑(ふけつ)という弟がおり、嫮生さんはこの溥傑の次女として生まれたのです。 溥傑は日本に留学しており、1937年に日本人の … 〈文化大革命〉のあらし吹き荒れる中国。 〈中華民国〉の誕生です。 側室ということで劣った扱いを受けていた文繡は、いたたまれずに離婚。 しかし溥儀の入院する病院に〈紅衛兵〉が乱入。 真の苦難のはじまりでした。 このさなか、中国の伝統文化がすべてが否定され、破壊しつくされました。 西太后(1835~1908)とは、中国の清王朝、咸豊帝の妃である。 慈禧太后と呼ぶこともあるが、宮廷の西側に住んでいたので、東側に住んでいた咸豊帝の皇后「東太后」と区別して西太后という通称が一般的になっている。. 民主主義が世界で主流になってきていたのです。 同性愛の関係であることをほのめかす描写がありますが、 実際はそのような仲ではありません。 ... こうして西太后によって皇帝にされた溥儀は、 斜陽の清王朝の中で、父母とも引き離されて紫禁城で暮らし始めます。 退屈で圧迫感のある宮中の中で、善悪の区別がつかない幼い皇帝は. 植物園の庭師として仕事を世話され、やがて歴史の史料を研究する仕事につきます。 そして最初の2人の妻・婉容と文繡です。 溥儀の肖像写真でいつも印象的な、眼鏡を与えたのもジョンストンです。 宣統帝、愛新覚羅溥儀が1964年に北京で出版した自伝で、直後香港で話題になり世界で増刷された。 ja.wikipedia.org 所見 溥儀は西太后の指令によって光緒帝の養子となり、皇帝となった。溥儀の家系は西太后らが展開する醜悪な権力闘争を生き延びた。 幼い溥儀は紫禁城での生活の中、皇帝の扱いを受け続けます。 西太后が溥儀を紫禁城に招いたその時、死去したと映画では描かれていますが、史実では西太后は26日後に亡くなりました。溥儀の正妻・婉容が年上の様に描かれていますが、史実では同じ1906年生まれで … 光緒帝は西太后が毒殺したという学説が現在では有力です。, わずか4年間の在位でした。 その後の人生を女学校の教師として送りますが、次第に貧窮がきわまって餓死に近い形で、1953年死去しました。, 幽閉の日々は終わりを告げました。 そこは半分、別の国。 いつどうなるかもわからない満州の状況を見て、日本――というよりも、満州の特殊権益を過剰に重視する〈関東軍〉は思ったのです。 籠の中の鳥の状態でありながら、自分なりに周囲を変えようと努力します。, しかしある日、紫禁城で長く続いた日常は破れます。 袁世凱らは溥儀の禅定(自主的な退位)を迫ります。 満州人(女真族)のシンボルである辮髪(べんぱつ)を「洋装に似合わない」という理由で切り、スーツを身につける清国皇帝。 勢力拡大意欲が盛んだった、当時の日本。 溥儀は〈満州国〉の執政、そして翌年には皇帝へと進みます。 西太后の生年月日から求めた誕生日占いと、歩んだ人生と個人Kin年表との鑑定を行います。西太后(せいたいごう)は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。中国三大悪女の一人と言われる人物 … 現代の観点で見れば、異常なほどに。 正妻は17歳の婉容。 溥儀の父親は、醇親王載ほう。 撫順政治犯収容所には、弟の溥傑もともに収容されていました。 西洋列強の事実上の植民地支配により、中国の地図は「列強がどの地域を支配しているか」を示す、まだら模様に。 第12代清朝皇帝はよちよち歩きの子供。 この早い結婚も周囲の大人たちが決めたことでした。 彼女の目的は、清王朝の復辟(ふくへき)。 激動の人生を送ったラストエンペラーの人生の旅路の最後は、どのようなものだったのでしょうか。, 1959年に釈放された溥儀は、看護師の李淑賢(り・しゅくけん)と結婚します。 その後「犯罪者」として刑務所に収容され、最後は一市民として余生を送る――このような人生を送った歴史上の人物は類を見ません。 擁立されたのは、清朝最後の皇帝・溥儀。 世界中が驚きました。 溥儀は利用されたわけです。 たとえば、婚姻の直後に皇后婉容と溥儀は関係をもたなかったのだが、寝室に取り残された婉容は 厠を見つけられず、そこにあったおまるに用をたさざるをえなかったとかです。 婉容個人の極めてプライベートな領域の記述だと思います。 これは入江さんの小説のなかで二人のその後の関係性 弟・溥傑は日本の妻子(溥傑の正妻は日本の皇族でした)との再会をめざして生きのび、1994年まで存命しています。 出自. その中には張作霖が乗車していました。 自らがトップに立つ立憲君主制を目指した袁世凱でしたが、猛烈な反対にあって退位。 やがて大日本帝国政府をはじめとしたすべての権力から独立した、一大勢力を築くのです。 西太后は死ぬ前に溥儀を宣統帝として擁立し、実務経験の乏しい溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后期の長きに渡って積み重なった積弊に因り死後3年で清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。 母親は、当時強大な実権を握っていた〈西太后〉の腹心の娘・幼蘭。 しかし溥儀は病に倒れます。 〈東洋のマタ・ハリ〉と呼ばれた男装の麗人です。 そのために日本に協力した芳子でしたが、「男装の麗人」の美貌もあいまって政治のカードに使われます。 、袁世凱の治世下の1912年に第一次世界大戦が勃発。 事実上の幽閉生活を送る中で、英国人のジョンストンから教わる知識によって、世界に目を開いていく溥儀。 清王朝の時代から、近代化と西洋化を推し進める政策をとったのも彼です。 教養のある彼は溥儀に同情的で、この最後の皇帝に手出しをさせませんでした。 清の時代、中国を支配していたのは漢民族ではなく「満州民族(女真族)」になりますが、西太后(せいたいごう/せいたいこう)はその中でもエホナラ(葉赫那拉)と呼ばれる氏族出身です。 父親は清王朝に仕えていた中堅の官僚であり、それなりに裕福な一族に西太后は生まれます。 西太后が生まれた土地は … ついに1941年12月12日、日本はアメリカへ宣戦布告。 そして日本軍の諜報部員として活躍をはじめるのです。 そして4人目の妻は、貧農の生まれの李玉琴(り・ぎょくきん)という15歳の少女です。 皇帝〈光緒帝〉、および〈西太后〉が崩御。 つまり自分の国全土が、半分別の国のものになっているという、まさに内憂外患のカオス。 中国を近代国家として立て直していく一方、自らの権力を強めていきました。, 袁世凱は「中国の人民は1人の為政者が取りまとめなければ、まとまらない」という思想を終生持ち続けていました。 日本で育った彼女は芳子はある時、断髪。 蒋介石の〈国民党〉との激戦の末勝利したのは、毛沢東ひきいる〈共産党〉でした。 満州では、政府と軍部が分立して政治を行われていました。 1946年、発狂し廃人同然となった皇后は、中国某所の監獄で息を引き取ります。 激動の時代と苛烈な運命を生きぬいた愛新覚羅溥儀とすべての人物に、拍手を送りたくなりませんか。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 日本史と中国史のはざまで大きく揺れ動いた人物がいます。愛新覚羅溥儀――「あいしんかくらふぎ」と読みます。清朝最後の皇帝としてわずか2歳で即位、6歳で退位。〈辛亥革命〉やたびかさなる戦争、内戦。日本の傀儡国家たる〈満州国〉の皇帝に27歳で即位。最後には一北京市民として亡くなります。皇帝という身分の重荷を背負い続け、不可思議な人生を送った、大国・中国のラストエンペラー・溥儀。生まれてから亡くなるまで、彼には歴史と歴史上の人物がまつわりついていました。愛新覚羅溥儀の一生は、彼に関わった歴史上の人物たちの群像劇なのです。. 西太后(せいたいこう、せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう)、満州語: .mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian BT","Mongolian Baiti","Mongolian Universal White","Noto Sans Mongolian"}ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠᡤᡞᠩᡤᡠᠵᡞᡞᠯᡝᡨᡠᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ、メレンドルフ式転写: hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる。, 中国語では「慈禧太后(Cíxǐ Tàihòu、ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xī Tàihòu、シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。, 紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2夫人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后[読み疑問点]。, 「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである。, 宮中に入る以前の姓は葉赫那拉(イェヘナラまたはエホナラと読む)で、幼名は「蘭児」。数え18歳で後宮に入ると「蘭貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた。昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により「懿貴妃(nesuken guifei)」となった。咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后」となったが、当時のしきたりではめでたいことや吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子(同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后(jilan hūturi tab karmangga hūwang taiheo)」となり、同治帝の親政開始で「康頤」が加えられ、その後も吉事の度に二文字ずつ追加されて最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后」となった。, 近年西太后の弟桂祥の曾孫を名乗る那根正(近年では葉赫那拉根正と名乗る)が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。, 以上のような理由で、中国の研究者の間では、那根正の出自に対しても疑問が呈せられている。[2], 西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。, 1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后はニオフル氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の長く生きた男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した[3]。, アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。, 懿貴妃は皇后ニオフル氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。, 北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。, 1874年同治帝は大婚[4]を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。, 同治帝の死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。, 同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。, 1875-1879年、連年の天候不順に因り丁戌奇荒と呼ばれる大飢饉が発生したが、再び大権を握った西太后は何等の救済も実施せず、富裕な民間人が私財を投げ打つ私的な飢民救済が各地で行われた、しかし中央政府の怠慢は結果として1000万人以上の餓死者を出す清朝の歴史上最悪の飢饉を引き起こした。, 1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。, 東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。, 同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内に於いて権力を掌握した。表の政治においては、恭親王奕訢と近く洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚が重責を担った。洋務運動がある程度の成果を上げていた期間は同治中興と呼ばれる。, しかし洋務運動は経済活動とリンクさせず朝廷の事業としてのみ実施された例が多った為に概ね持続的な発展を欠いた、そして1895年の日清戦争により挫折が明白と成る。清朝の敗北は、西太后が1885年から始めた頤和園の再建と拡張に伴う莫大な浪費(日清戦争の総費用の約3倍にも上る)とその予算すら不足したために北洋艦隊の予算を大幅に削り加えて海軍衙門の予算も内務府へ数百万両ほど流用させた[5][6]事、また西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費(日清戦争の総費用の2倍以上)[7][8]をさせた故に、北洋艦隊・海軍衙門の予算不足により艦船は整備されたものの操練が遅れ艦船や設備の更新がされなかったことが主要因とされている。, 日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している[9]。, 日清戦争の敗北後の光緒21年(1895年)、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。, 西太后は当初改革を見守る姿勢をとっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣を含めた守旧派の高官[10]と官僚層の間に不満が高まっていった。[11]多くの官僚・士大夫は康有為の孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬や張之洞のより穏健な改革論を支持した。変法運動は支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。[12]もともと張之洞と康有為は西洋文明の精神は中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為の思想は洋務派の思想と大差はなかった。[13]だが、康有為の孔子改制論や孔教国教化運動は当時の知識人からは「異端邪説」と見られ、守旧派や穏健改革派のみならず光緒帝の側近である帝党派大官の翁同龢、孫家鼐や変法派内部[14]からでさえも反発を受ける結果となった。[15], 西太后は再々度の訓政を企図すると、側近の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させた。光緒帝側もこれに対抗して改革に好意的な袁世凱を候補侍郎に抜擢して新建陸軍の練兵事務に当たらせた。西太后派と変法派の緊張が高まるなかで、変法派は軍権を握る栄禄を殺害して西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する計画を立て、譚嗣同は袁世凱を訪ね計画に参加するように持ち掛けた。袁世凱は栄禄と面会した際、変法派の頤和園包囲計画が既に露見していると思い、保身のため栄禄に変法派の計画の詳細を密告した[16][17][18]。西太后は宮中に乗り込みクーデターにより再々度政権を奪い変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。 〈関東軍〉は国際社会からも、日本政府からさえも独立して軍事拡大を続けます。 しかし彼女は22歳で謎の病死をとげます。 張作霖は死亡。 収容所内では掃除や労働が課せられていましたが、溥儀は服や靴すら自分でうまく身に着けられませんでした。 清王朝の最後の皇女の1人で溥儀とも血縁関係にある皇女・愛新覚羅顕シ。 そして共通の敵・日本が倒れたことにより、中国はふたたび内戦状態。 「みんなの意志で国を動かす」という民主主義の国家ビジョンは、長い間『皇帝』という大きな存在に支配されるばかりだった中国民衆に非常に魅力的に訴えたのです。, 1912年、6歳の溥儀は退位します。 西洋化をおしすすめる必要にせまられますが、これによって中国大陸は西洋列強の植民地同然になります。 〈辛亥革命〉で清王朝が倒れ、袁世凱が失脚したのち、各勢力の群雄割拠時代に突入した中国。 その一方で溥儀は新たな2人の妻を迎えました。, 1人は側室・譚玉齢(たん・ぎょくれい)。 〈辛亥革命〉では孫文らとともに先頭に立って革命を指揮。 溥儀がその後、数百人の宦官や女官にかこまれて「大清皇帝」としてのあつかいを受け続けることに、革命政府は同意しました。 唐突に訪れた別れの日まで、ジョンストンは溥儀の人格形成に大きく関わりました。 溥儀の実父にして摂政を行う醇親王や高官、溥儀の義理の母たちはこの要求を容れるかわり、溥儀や自分たちが紫禁城で不自由なく暮らし続けられるという保証をとりつけます。 満州に勢力を持つ張作霖が邪魔だ……そう思ったのは満州で拡大路線を続ける〈関東軍〉でした。, 1928年6月4日早朝、南満州鉄道が爆破されます。 この事情が満州国建国の基盤になります。, 〈関東軍〉はその満州鉄道を守備するために、大日本帝国陸軍から派遣された部隊でした。 幼くして帝位につき、すぐ退位。 1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。 温厚でやさしい玉齢をもっとも愛した溥儀。 民主化を目指した〈辛亥革命〉の理念もその後、結局は潰えます。 それを聞きつけた、かねてより溥儀の庇護者だった首相・周恩来は北京市内の病院に、溥儀の治療を命じます。 しかし悲劇の源は「満州が日本の生命線」という陸軍の方針にあったでしょう。 しかしかつて皇帝であった「反革命的」存在の溥儀を治療しようとする病院はありません。 日清戦争敗北後の1898年には、日本の明治維新をリスペクトした革命を起こそうとしたものの、保守派によるクーデターが勃発。 幼名は蘭児。 満州旗人で葉赫那拉(エホナラ)氏の恵徴の娘。 中国と溥儀はどうなっていたのでしょう?, 紫禁城の中で自由を求めていた溥儀。 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀は妻の淑賢に看取られて、波乱の生涯を閉じます。 しかし正妻である皇后・婉容はほぼ廃人状態でした。 宦官という存在は、もともと男性の奴隷の性器を切り落とす「刑罰」(中国では宮刑と呼んだ)から始まったといえる。後に異民族に限らず、捕虜や罪人に対して行なわれるようになった。刑罰の種類には鼻削ぎや耳削ぎ、顔面への入れ墨などがあったが、その中でも打ち首に次ぐ重い罰が宮刑だった。 時の権力者は、その形で生き残った者らを宮殿に入れ、労働力として活用したのだ。子孫を残せなくなった彼らの仕事場として … 「清王朝打倒」を、「君主のいない共和制国家・中国」を、何よりも中国の威信の回復を目指しました。 正妻・婉容は溥儀と社交界で活躍しますが、ストレスから阿片におぼれます。 その後、中華民国の第ニ代大総統に就任します。 生涯に渡り交流を続けることとなった家庭教師・レジナルド・ジョンストン。 その後もジョンストンは溥儀と文通や謁見を果たし、深い信頼関係で結ばれた師弟の絆は、ジョンストンが1939年に亡くなるまで続くのです。, 16歳で溥儀は周囲の勧めにより、妻を娶ります。 中華民国政府ではまとまりがつかない中国。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 西太后の用語解説 - [生]道光15(1835).10.10.[没]光緒34(1908).10.22. 1908年、西太后は崩御。 溥儀に関わった人びとは、本人を含め悲劇的な運命をたどっています。 張作霖はそのうちの一人、軍閥政治家です。 溥儀の運命は転回していきます。, 〈関東軍〉――太平洋戦争における日本の暗部を象徴しているかのようで、いい印象を残さない存在です。 世界史的には共産主義、無政府主義の動きが活発化してきた時代です。 ときは1906年。 清朝の帝室・愛新覚羅氏は満州をルーツとしています。 北平第一監獄で銃殺刑に処されたのは、彼女が満40歳になった1948年のことです。, 大人たちや周囲の言うがままに生きざるをえなかった、溥儀。 「何か食べたいものはあるか」と問われた溥儀は、こう答えます。 モンゴル、チベットにまで覇権をのばし、アジア全体に影響を与えていた大国・中国は、19世紀にいたってアヘン戦争に敗北。