・監督挨拶 を更新しました。8/4 ・令和2年7・8月の 活動予定 を更新しました。 7/26 ・ 魁星旗剣道2020 は新型コロナウイルスの影響で中止となりました。 3 /16 ・ 活動報告「第61期 三年生を送る会&OB会入会」 を掲載しました。 2/22 ・ 第1回 習高稽古会のご案内 を掲示しました。 プロになるような選手って、ともすれば中学生年代でもそのポテンシャルに光るものがあったりしますが、彼らは高校1年生の時でさえ、そういうオーラは全くなかった(笑)。ただ、例えば泰志には、当時から自分の『こうなりたい』という強い意欲があり、それを3年間持ち続けていた印象はあります。それもあって、先ほどの「自分がどうなりたいか」を大事にして欲しいという言葉に繋がるのですが、その必要性に気付かせるのも僕たちの仕事だと思うので、そういった環境づくりはこれからもしていきたいと思っています。, ー日本のサッカーではよく『規律』という言葉を耳にします。ご自身の指導においても、それは大事だと考えますか。, 村松 『規律』という言葉自体はあまり使いませんが、サッカーは組織、チームで戦うスポーツなので、チームとしての決まりごとや、やるべきことがあるのは自然だと思います。 17 :名無しさん@お腹いっぱい :02/05/10 17:56 ID:DVYtenbi >前・石井監督と違い、合理的・勝つための練習です。 前じゃなくて元でしょ! >2・3回戦で敗退が ただ、僕はその中でも『個人』をちゃんと出せる状況にはもっていきたい。つまり、選手個々の特徴が出ないゲームとか、そういう状況に追いやってしまう指導はしたくない。守備が得意じゃない選手に守備の要求ばかりして、その選手の良さが消えてしまったら、その選手を起用する必要はあるのか?ということになってしまうので。それもあって、守備が苦手な選手にも「自分なりにチームのためにどう守るか考えろ」と伝えます。つまり、チームとしてやるべきことはあるけど、自分らしさを消さなくていいように判断してプレーしろ、ということです。, 村松 チームとしての目標は…日本一をいつかは獲りたいです。指導者としてはピッチにいる11人全員を…大学経由でもいいので、プロにすること。近年、昌平高校からは先ほど名前の挙がった泰志も含め、コンスタントにプロサッカー選手が誕生している状況があり、サッカーを評価いただけることが増えたせいか、少しずついろんな方が注目してくださっているので、この流れを続けながらいつか、11人全員がプロになれたら理想です。, ーご自身は将来的に、別のカテゴリーの指導者をしてみたい、と考えることはありますか?, 村松 ないです。ずっと育成年代の指導者でいたいと思っています。なぜなら、サッカー選手の成長において、中学年代は一番大事な時期だと思うから。体も変わってくるし、プレーヤーとしてもやり方次第で一気に変化する選手もいる。そう考えても、この年代の指導者を預かる責任はすごく大きいし、だからこそ、やりがいも感じています。, 村松 刈谷JYのコーチをされている吉村大輝さんを紹介します。LAVIDAを立ち上げて数年経った時にいろんなチームと試合をする中でよく、相手チームの指導者の方からうちのチームが「刈谷JYと似ている」と言われていて。それをきっかけにどんなサッカーをするのか興味が湧いて交流を持つようになりました。 ・第27回全国クラブチームサッカー選手権全国大会の習志野シティFC試合日程 ①10/24(土) 14:00K.O. もちろんそこには要求されたことを受け入れる人間性や周りにリスペクトする心も大事ですが、それを持ちながらも、自分の中で『自分はこうなりたい』『自分のサッカーはこれだ』というものを備えられる選手になって欲しいと思っています。, ー先日、コパ・アメリカ2019に出場する日本代表に選出された松本泰志選手は、昌平高校卒業後、サンフレッチェ広島に加入しました。最近は昌平高校からプロサッカー選手も多数輩出されていますが、彼らの姿から学ばれることもあるのでしょうか。, 村松 あります。その1つがチャンスというのは本当に誰に対しても広がっているんだな、っていうことです。例えば、泰志(松本)は、高校1年生の時から見ていましたが、1年生の段階ではそれほどスペシャルな選手ではなかったんです。っていうか、今まで昌平高校からJリーガーになった選手は4人いますが、高校時代に「この選手は間違いなくプロになるな」って確信するような能力を持った選手は一人もいません。 習志野市立習志野高校出身のサッカー選手32名のリストです。年齢の若い順に並べています。1994年6月4日生まれ。サッカー選手(ブラウブリッツ秋田→ラインメール青森→現在はアイルランド・クラムリン・ユナイテッドFCに所属)。 第99回全国高校サッカー選手権千葉予選 2次T準々決勝 習志野 vs 日体大柏 【観戦記事】 第8回和倉ユースサッカー大会 2020 予選リーグ 習志野 vs 帝京大可児 【観戦記事】 第8回和倉ユースサッカー大会 … ー2006年に興国高校のサッカー部監督に就任した経緯を教えてください。 内野 僕は初芝橋本高校を卒業後、高知大学、愛媛FC(JFL)で選手としてキャリアを積んできましたが、実は中学生くらいの頃から戦術を考えることが好きで、プレーしながらメンバーやフォーメーションを勝手に想像して、ああでもない、こうでもないと頭を巡らせていました。ただ、だからと言って将来は指導者になろう、と思ったことはなかったのです … vs 修大クラブ(広島)茨城県ひたちなかサッカー場で開催 お互いが主催する大会にも参加しあっていますし、日程等の関係でそれが無理だったとしても、年に1回は必ず試合もしています。サッカー感の部分でもすごく相通ずるものがあって、僕自身もいつも対戦を楽しみにしているチームなので是非、話を聞いてみてください。, <PROFILE> 正直、当時は近くに選手が中学時代に身につけたサッカー感を継続しながら成長を望めるユースチームがなかったのと、昌平高校は私学だということもありました。同校は埼玉県にありますが、茨城県や栃木県の県境にあり…と言ってもFOURWINSの拠点は茨城県県北地域の北茨城市、高萩市、日立市だったので、決して近くはなかったんですけどね(笑)。でも、大事に育てた選手がそのまま順調に成長できる環境を与えるのも指導者の役目だと考えました。 【習志野高校サッカー部~雑草の如く逞しく~】父母会が運営する応援サイトです。 監督: 福田 克之 部長: 金子 大助 顧問: 前田 有一 コーチ: 佐藤 有毅 篠 達也 GKコーチ: 志田 龍之介 トレーナー: 縄 … 唯一、記憶しているのは、型にはめられることなく自由に、自分たちの良さを引き出してくれたということですが、僕自身は千野さんの指導力にすごく惹かれるものがありました。それもあって大学卒業後、すぐにヴェルディSS相模原のコーチになりました。, 村松 ヴェルディのあとは、習志野の同級生が代表を務めていた茨城県のFOURWINDS FCで、コーチとして中学生を見ていたのですが、その時に「どうせなら、育てた選手を同じサッカー感をもった指導者のいる高校で見てもらいたい」と、同じく習志野の同級生だった藤島崇之が監督をしていた昌平高校に何人か選手を送っていたんです。 しかし1993年以降、千葉県からの出場枠が1つしかない全国高校選手権では千葉県予選で船橋市立船橋高等学校などに敗退する年が続き、しばらく出場できなかった。玉田圭司がいた1998年、第77回全国高校選手権に6年ぶりに出場した。, 習志野高校の選手は、多くの選手がテクニックを持ち、ボールをしっかり止めて蹴ることができた。反面、「うまければそれでいい」ということで技術面を伸ばすことばかりに偏りすぎてしまったことと、メンタルやフィジカルなどさまざまな面を鍛えていかなければいけなかったことを本田は反省している[6]。, 2001年に、流通経済大学柏高校監督に本田は就任する。今のままでは頭打ちだと悩んでいたところに、地方公務員には避けて通れない教員異動で習志野高校から別の高校へ行かざるを得なくなったことが原因であった。同時に公立高校教員を退職。, 流通経済大学柏高校に行くのにあたり、習志野高校在学中の12人と、習志野高校に新1年生として入学予定だった3人、計15人を流通経済大学柏高校に連れてくる形となった。本田は最初の2年間は、連れてきた選手がいたこともあり、習志野高校時代と同様にテクニック重視の指導をした。, 流通経済大学柏高校は、2001年にサッカー選手寮、2003年にサッカー部専用グランドを作り、環境を整えていった。, 2003年から本田は、学校側から全国優勝を強く求められたこともあり、結果を追求することを決意した。サッカーのスタイルも、攻守のバランスを考え、時には守りを固めるようなことも辞さないものとした。ピーンと張り詰めた空気を作るための指導方法を模索した。日常生活では、あいさつや掃除の徹底、大きな声を出して目標をしゃべらせる「ナンバーワン宣言」、次の試合に向けて選手たちにそれぞれの目標を書かせる「目標設定用紙」の活用などを行った。また練習メニューも、それまでボールコントロール中心だったのが、ワイドなエリアを使ったクロスやシュートの練習、判断の速さを高める練習などを行うようになった。, 選手勧誘も強化し、最初は千葉県中心で、やがて関東、九州、沖縄から勧誘することも多くなった。, 流通経済大学柏高校は、高校選手権大会では2005年の第84回に全国大会初出場し、2度目の出場となった第86回で全国優勝を果たした。高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 では、2007年の第18回で優勝した。また、高校総体では2008年高校総体で同じ千葉県勢の市立船橋高校とともに両校優勝をしている。2011年に開始した高円宮杯U-18サッカーリーグでは、開始初年度から2016年までプレミアリーグに所属し、高円宮杯U-18サッカーリーグ2013では高校勢としては初となるチャンピオンシップを獲得した。, また、2010年4月より同校敷地内グラウンドで活動を開始したジュニアユース(中学生年代)のサッカークラブ「クラブ・ドラゴンズ柏」の総監督も務めている[7]。, 本田は、高円宮杯U-18サッカーリーグなどの高校生年代リーグ戦の開始に関わっている。1997年、暁星高校の林義規監督と食事をしながら話をしているとき、高校サッカーはリーグ戦を立ち上げる必要があるということで意気投合。周りに声をかけ、関東スーパーリーグを立ち上げた。この関東スーパーリーグが発展する形でのちに、JFAプリンスリーグU-18や高円宮杯U-18サッカーリーグが全国規模で開催されるようになった。, 高校サッカーの多くの名将が考えるような「高校選手権至上主義」に本田は疑問をもっており、2009年時点で高校サッカー界の最高のタイトルは高円宮杯としていた[8]。また、高円宮杯U-18サッカーリーグについては開始から間もない2012年、高校勢の活躍がむつかしいことや遠征費の高さなどの問題を指摘していた[9]。2016年には、「高校とクラブユースが互いに相乗効果が出て全体のレベルがかなり上がってきており、6年間の積み重ねで非常に良い大会になった」と評価している[10]。, 2019年5月、怪我を負った部員の松葉杖を奪って投げる不適切行為により懲戒処分を受けた。同年度をもって監督を退任することが報道された[11]。, 高校側から見るプレミアリーグの利点と改善点 流通経済大柏高校・本田裕一郎監督インタビュー, チーム紹介|高円宮杯U-18サッカーリーグ2016|大会・試合|JFA|日本サッカー協会, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=本田裕一郎&oldid=80684555. 本日、本校グラウンドにて千葉県サッカーリーグ戦が行われました。 vsFC幕張 7-1(1-1/6-0)〇 2年生中心のメンバーで臨み、後半一気に6得点を奪い快勝となりました。 選手権の敗退後すぐの試合でしたが、良いスタートとなる試合ができたと思います。 学校創立は1957年、全日制・定時制課程にそれぞれ普通科と商業科の2学科を併設し、1975年に現在の実籾に移転するまでは現在の京成津田沼駅周辺に校舎を構えていた。 初代校長は、のちに日本体育協会副会長や八千代松陰中学・高校創立者となった山口久太は習志野高校の校歌の作詞を担当。「雑草の如く逞しく」は山口が第1期生に向けた激励の言葉で、60年間受け継がれ現在も伝統となっている。 試合と違うことがあるとすれば、シュート練習をちょこっとするくらい。それ以外はいろんな形、特性を考慮したゲームばかりですが、走る距離だとか、強度も、常に試合に近い状況を想定してトレーニングをしているので、試合だからといって敢えて何かを変える必要はないという感覚です。, 村松 ウォーミングアップではドリブルからパス、とかやりますけど、それもただのウォーミングアップにはならないようにゲームをイメージした上で、ボールの受け方を工夫させたり、個人的に足りないものを指摘したりしているので、技術練習をしているようには見えないかもしれません。 砂金 伸(いさご しん、1960年 11月29日 - )は日本のサッカー指導者。 黒。黒。黒。 経歴 競技歴 1976 - 1979 千葉県立船橋東高等学校 1979 - 1983 日本体育大学 学友会サッカー部 1983 - 2004 千葉教員サッカー … 本田 裕一郎(ほんだ ゆういちろう、1947年 5月1日 - )は、サッカー指導者。 千葉県立市原緑高校、習志野市立習志野高校、流通経済大学付属柏高校の3校を監督としてサッカー強豪にし、多くのサッカー選手を指導している。 基本的に選手って…僕自身もそうでしたが、指導者の好みにあわせて、指導者の理想のスタイルを気にしながらサッカーをしますが、本音を言えば…指導者の僕が言うのもなんですが(笑)、できれば気にして欲しくない。なぜなら選手って、自分で大きくなっていくべきだから。 【高校サッカー名将バイブル】仲村浩二監督(尚志高校)-前編のページです。サカママはサッカージュニアを支えるママのための情報メディアです。お子さんの「サッカーの上達」と「サッカーを通した健やかな成長」に役立つ情報を発信しています。 指導者・雰囲気・試合結果・学業・・・総合的に判断して 千葉県の八千代・市立習志野・市立船橋 を評価してください。現在中学3年。県内のクラブチーム所属。進路について悩んでいます。進学するならどの学校が良いか、皆さんの意見を もちろん、週に2回、試合が入っている時は多少、内容も考慮しますけど、それ以外はほぼ毎日、変わらない強度で行います。, 村松 普段のトレーニングを、練習のための練習にしたくないからです。だからこそ、試合と同じような感覚で行う練習内容が多いとも言えます。 習志野のサッカー、監督、選手が流通経大柏に 流出したって本当? 「習志野からJリーグへ」 2019年春に発足した習志野シティFCは習志野市を背負い、ボランティア活動、シティセールス活動を通して、市民に愛され誇れる地域愛着クラブチームになることをスローガンに掲げ、Jリーグ加入を目標とし、ホームタウン習志野市の地域活性化に貢献することを理念として掲げています。 選手・スタッフはスポーツの街・習志野市の象徴でもある「習志野高校」サッカー部OBを中心に、市内出身・在住・在勤者で構成。 将来的には地域の枠を超え外側への発信をして人を呼び込 … それもあって、うちの試合はバックパスが圧倒的に少ない。選手にも、ボールを受けた時にバックパスを選択してしまうってことは次のプレーを考えていないということだし、バックパスをしなければいけない状況に陥っていること自体が、いいポジションではないと伝えています。, 村松 そういった感覚は口で伝えられるものではないので、設定を変更しながら同数でのゲームを数多く行っています。 本田前監督の習志野高 (千葉)監督時代の教え子で、流経大柏のコーチとして18年間チームに携わってきた榎本新監督は、「体力・体格強化」「人間力強化」「選手主体」を掲げてチーム作りを … サカママによる、仲村浩二監督のプロフィール 習志野高校出身のサッカー選手といえば、玉田、福田健二などがいますね。そして1972年生まれのサッカー選手といえば、岡野やもりし、名波など。 1972年6月30日、千葉県出身。習志野高校 もちろん、指導者が働きかけて選手を動かすことでうまくいく局面もあるかもしれませんが、それだとうまくいかなくなった時に、選手がピッチでフリーズしてしまうし、それではチームは機能しません。それに選手が自分の判断で自然に動けるようになれば、それはチームとしての結果にも直結していくはずです。もちろん、まだ中学生なのでこちらも気づいたことは伝えていますが、基本的なスタンスとしては選手が自分で考えて動けるチームにしたいと思っています。, 村松 今週は試合もないのでいつもよりも高い強度でやっていますが、普段も、強度は高い方だと思います。他のチームの指導者が見学に来られると「こんなにやっているチームはないよ」って驚かれることが殆どなので(笑)。, 村松 毎日、ボールを使ったトレーニングをひたすら2時間くらいやるだけで、筋トレも、走り込みもしません。ただ、練習中は、ほとんど動き続けているし、実際、ゲームで足をつる選手もいないので強度としては十分なのかな、と思っています。, 村松 そうなんです! うちの選手はなぜかびっくりするくらい太いんですよ(笑)。こっちが「何か自分でトレーニングしているの?」って思うくらい下半身がゴツい選手が多い。その理由は僕としても謎で…うちで鍛えられてこうなったのか、もともとの体格なのか、分からないですが、自分の中学時代と比べても太いなって思います。, 村松 基本的にはないです。週末に試合が入ってくるか、くらいは気にしていますが、そこまで細かく組み立てないようにしています。というのも、常に『トレーニングのまま、ゲームにいく』というイメージで試合に臨むのが理想だから。 1979年生まれ、千葉県出身。習志野高校、日本大学を卒業後、指導者の道に。ヴェルディSS相模原やFOURWINDS FCで中学生年代の指導に携わったのち、11年に昌平高校のコーチに就任。その後「一貫指導体制で選手を育成したい」との思いから、昌平高校監督の藤島崇之とともに12年にFC LAVIDAを発足し、監督に就任した。近年はU-15チームが埼玉県リーグから関東ユース(U-15)サッカーリーグへの昇格を決めるなど、短期間でチームを急成長させている。, 新規会員登録の際は「プライバシーポリシー」を必ずお読みいただき、ご同意の上本登録へお進みください。, 鉄分補給!アサリと小松菜の卵とじ/管理栄養士 スポーツフードアドバイザー 坂本星美. 2007年-松本市役所サッカー部 2008年-フェルヴォローザ石川・白山FC 2009年-2010年大原学園JaSRAサッカークラブ 【指導歴】 2011年-2012年大原学園JaSRAサッカークラブ ヘッドコーチ 2013年-2016年大原学園JaSRAサッカークラブ 監督 村松明人(むらまつ・あきと) 近年、埼玉県内でも目を見張る躍進を続けている昌平高校。その下部組織として12年に発足したFC LAVIDAも同じく、ジュニアユース世代で頭角を現しつつある。今回は昌平高校のコーチと並行してFC LAVIDAの監督を務め、その育成手腕に注目を集める村松明人監督に話を聞いた。, 一リップエースの今村康太監督からのご紹介で取材に伺いました。まずは指導者を志したきっかけを教えてください。, 村松 康太さんは習志野高校の1つ上の先輩ですが、僕が「将来は指導者になりたい」と漠然と考えるようになったのは、その習志野高校時代です。当時、サッカー部のコーチをしていた千野徹さんの影響で指導者に興味を持ちました。といっても、当時、千野さんがどういうトレーニングをしていたか、とか、何をして成果が出たか、ということは全く覚えていなくて(笑)。 あとは『サッカー感』ですね。これを言葉で説明するのは難しいですが、要するに選手には「ゲームから消えない選手」であることを求めます。実際、消えてしまう選手、試合の中で頭が休んでしまう選手は、試合によっては機能する可能性もありますが、試合の展開や試合を選ぶ必要が出てきます。これは理想ではありません。, 村松  イメージとしては、あえて守備を難しくするというか、人数は同数でも守備がハマまらないようなシステム同士でゲームをやらせることはよくあります。あとは、方向性を決めた、移動式のトレーニングとか、4:4で外にサーバーを置き、方向がパッパと変わっていく、切り替えの早いトレーニングもします。ボールを奪われた瞬間に、ゴールコースを消す守備ポジションを取りながらボールを奪いにいくとか、頭と体の切り替えの速さが必要になる常に動いている状況でのトレーニングもやっています。それによって、僕が指示しなくてもピッチ上で選手が考え、状況を判断して動けるのが理想です。 FOURWINDSの選手を送り始めたときはまだ昌平高校も、これから力をつけていくぞ、という段階でしたが、サッカー感があうチームに選手を預けた方が選手のためになるのではないか、と。もっとも、サッカー感があう、あわないだけで判断すべきではないと思っていますし、選手がそれを言い訳にするのもいいとは思いません。でも、選手の成長を求める上で、選手にあったサッカー、チームでプレーするのはすごく重要で、指導者がそこを的確に見極めてあげることも大事なことだと思います。…と、話を戻しますがFOURWINDS時代から昌平高校に選手を送り込んでいた関係性もあり、僕も10年に昌平高校のコーチになり、そのあと、ジュニアユースチームを作ろうという話になって昌平高校の下部組織としてFC LAVIDAを発足し、監督に就任しました。と言っても高校のコーチも兼任しているので、平日はだいたい16時から高校生を、18時半から中学生を見ています。, 村松 スペイン語で人生っていう意味です。「la」は接続ですが、「vida」っていうチームが東京にあったので、「la」をくっつけて『LAVIDA』にしました。迷彩のユニフォームは…特に意味はないですが、オシャレにいきたい、と選びました(笑)。, 村松 『仕掛けること』ですね。うちのチームでは、ボールを大事にすること以上に、ゴールを奪うことに重きを置いているので、試合ではボールを受ける際も常に相手を見て、次のプレーをイメージしながら『ゴール』を意識してポジションを取ることを強く求めています。 本田 裕一郎(ほんだ ゆういちろう、1947年5月1日 - )は、サッカー指導者。千葉県立市原緑高校、習志野市立習志野高校、流通経済大学付属柏高校の3校を監督としてサッカー強豪にし、多くのサッカー選手を指導している。, 1947年に、4人兄弟の長男として静岡県に生まれる。静岡県立静岡東高等学校で赴任してきた教師の影響で高校2年の終わり頃に本格的にサッカーをはじめ、順天堂大学に進学してサッカーを続けた。順天堂大学にはのちに岩手県立盛岡商業高校などのサッカー部監督を務める斎藤重信が同期におり、本田と斎藤は長年の親友となった。, 大学卒業後は市原市教育委員会に所属する。ここでサッカーの普及をかねた巡回指導に従事しているうちに現場に出たくなり、市原市立五井中学校に赴任。デモンストレーションを中心にボールを止める、蹴る、フェイントなどの基本と1対1、ミニゲームなど、今でいうサッカー教室のような指導をし、教えることの楽しさに目覚めた。一方で、全国高等学校サッカー選手権大会の人気や千葉県の高校サッカー監督に刺激を受け、もっと年齢の高い選手を指導して華やかな舞台に立ちたいと思うようになった。その結果、公立高校の教員採用試験を受験して合格し地方公務員となり、新設校だった県立市原緑高校へ赴任し、サッカー部監督に就任。高校サッカー指導をスタートした。, 1975年にサッカー部監督に就任した県立市原緑高校では、新設校でグラウンドの整備も十分ではなかったことから、石拾いや土をならす作業からはじめた。また、チームのレベルアップのため、2年目からマイクロバスに選手を乗せて全国各地へ遠征し、藤枝東高校や井田勝通監督の静岡学園高校などの強豪と練習試合を重ねた。, こうした活動やスパルタ指導の結果、チームを千葉県ベスト4の常連まで引き上げた。また、佐々木雅尚、宮澤ミシェル、石井正忠らを指導した。県立市原緑高校監督を本田は11年務めた。, 県立市原緑高校での本田は、スパルタ指導をしていた[1]。スパルタ指導について本田は、「殴る蹴る」ではなく、「強引に引っぱっていく方法論」が本質だと捉えている[2]。一方で、この頃は殴ることに特別な違和感を持っていなかったとも述べている。スパルタ指導の方針により選手に厳しく接しようとした結果、理不尽な走り、理不尽な説教、理不尽な練習が多すぎ、まともなサッカー指導とは到底いえない「しごき」ばかりだったと当時について本田は振り返っている。佐々木雅尚が自発呼吸停止となり、救急車で病院に行ったこともあった[3]。, スパルタ指導は、選手が萎縮して才能の芽を摘む面があるなどの弊害の方が多かったと本田自身は反省している。一方で、厳しい指導により、選手の限界を超えさせ高いレベルまで引き上げさせることは指導者にとっては大きな仕事だとしている。また、体罰については、のちの習志野高校時代にアルゼンチン遠征したときに現地のコーチに言われた言葉がきっかけで本当にダメなんだなと知った、としている。, 日本国籍のない宮澤ミシェルが国体に出場できるよう、国民体育大会委員長だった山口久太に外国人規定廃止を陳情した[4]。外国人規定は廃止され、宮澤は3年の時に1981年びわこ国体に出場した。 それに、技術があっても…例えば止める、蹴る、運ぶ、がすごく巧い選手だったとしても、ゲームから消えてしまう選手は基本的に試合には起用しません。裏を返せば、たとえ技術が劣る選手でも、ゲームに関わる力があれば試合に出場できるし、実際にうちにはそういう選手もいます。なぜなら、どれだけ技術があっても守備のポジショニングがとれない選手が一人いるだけで、チームとしては『穴』になってしまうからです。実際、Jリーグの試合を見ていても、高い技術は備えているのにゲームの中では機能していない選手はいますよね?それによって、『チーム』として考えればマイナスになってしまっていることもある。そう考えても僕の中に、技術が最優先という感覚はないです。といっても、技術がある選手はこちらとしても起用したいので、ゲーム感を備えられるようにもっていきたいと思っていますが(笑)。, 村松 よく送り出す側の立場にある人が「将来はどの指導者のもとでも評価される選手に育てたい」と言っているのを聞きますが、正直、僕はどんなサッカーにも適応できる選手っていないと思うんです。だからこそ、選手には僕ら指導者側がどうなって欲しいか、より、選手自身に『自分がどうなりたいか』を描けるようになってもらいたい。 全国高校サッカー選手権大会への出場が決まった、市立船橋高校サッカー部の新監督の波多秀吾監督の経歴や嫁・子供の情報を調べてみました。市立船橋高校サッカー部といえば、高い実績から名門といわれていますが、名門サッカー部の新監督の情報が気になります。 よく試合前日はトレーニングの強度を落とすとか、軽く体を動かす程度の調整で終わるって聞きますが、うちは試合前日も普通にトレーニングをします。あえて練習だから、ゲームだから、と分けて考えなくても、その調整は時間でするくらいでいいのかなと。 ただ、僕の感覚では、ゲーム形式のトレーニングを続けるうちに1〜2年生でそれなりの技術は備わっているのかな、と。先ほどもお話ししたように、ゲームといってもいろんな種類があり、時にシュートを打つことにフォーカスしたゲームをすることもありますしね。これも、ただ、単なるシュート練習だと肝心の「どこで受けて、どうゴールにぶち込むか」という感覚が養えないのでゲームでやりたいな、と。 こうした陳情活動は、東京朝鮮中高級学校などの朝鮮学校を選手権に出場させようという運動にもつながった[5]。朝鮮学校の選手権などへの出場は、1996年から認められた。, 1986年、教員の異動により習志野市立習志野高校のサッカー部監督に就任。全国制覇の経験を持つ習志野高校から声がかかったことに、本田自身も前向きだった。, 習志野高校では、テクニックをベースとしたサッカーを突き詰めていくことを決意。決意の背景には、静岡学園高校を率いる井田勝通監督のサッカーへの憧れや、千葉の強豪校が基本的に前へ蹴り出すサッカーで勝っていたことへの反発、テクニックのある選手を日本サッカーリーグに送り出して活躍させたい、などの思いがあった。その結果、市原緑高校時代とは180度変わり、スパルタ指導や体罰は辞め、テクニック中心の練習をするようになった。, また、1980年代後半から1990年代にかけて出現してきた町クラブからの選手獲得を模索し、クラブ育ちの個性的な選手を大きく伸ばす考え方をとった。さらに、アルゼンチンやウルグアイへ海外遠征の海外遠征も実施した。, 本田監督のもと、習志野高校は1989年から第68回、第69回の全国高校選手権に連続出場した。また、1992年の第71回全国高校選手権にも出場し、ベスト4に進出した。福田健二、広山望らのいた1995年には、この年の高校総体で優勝している。 ボールの位置や、敵味方の位置を見てポジショニングをとるとか、次の展開がどうなるか予測することを感覚的に養うにはゲームが一番だからです。なので、ボード上で「この局面で、ここにボールがあるから、ここにポジションをとれ」という指導はしません。, 村松 確かに守備のことを考えれば、数的不利の状況を作った方が守りづらくなるので練習になるとは思いますが、瞬間瞬間で、『同数から数的優位に持っていくには、どう組み立てるか』を考え、優位に立つことを求めたいので、最初から数的優位な状況を作ってゲームをすることはほぼ、ありません。 Vol.1 興国高校サッカー部監督/内野智章 04 Vol.3 常葉大学附属橘高校女子サッカー部 監督/半田悦子 05 Vol.30 レッドブル・ザルツブルグU-16 コーチ/宮沢悠生 06 Vol.29 Lucero京都 監督/樋口健策 07 中田湧大(なかたゆうだい 08 仲村浩二監督の出身高校や大学もチェックしてみましょう。高校は、地元・千葉県の 習志野高校 でした。エースとして活躍し、 第69回全国高校サッカー選手権で ベスト4 ベスト8 に入 りました。 サッカー部は、高いレベルでの「文武両道」を目指し、何事にも全力で取り組む姿勢を大切にしています。いち選手として、そして人間として成長するために日々の練習に取り組んでいます。 サッカー部ブ … 【高校サッカー名将バイブル】仲村浩二監督(尚志高校)-後編のページです。サカママはサッカージュニアを支えるママのための情報メディアです。お子さんの「サッカーの上達」と「サッカーを通した健やかな成長」に役立つ情報を発信しています。
2020 習志野 サッカー 監督