1.緒戦の勝利 太平洋戦争の緒戦における日本軍の進撃に東南アジア各地の要地を占領した。 ・41年12月 香港占領。 → 12月 マレー半島占領。 → 42年1月 マニラ占領。 → 2月 シンガポール占領。 ^ 「これから、◯◯の国に戦争をしかける」という内容の宣言をすること。この宣言なしに開戦するのは国際条約(w:開戦に関する条約)違反となる。 2. ^ フィンランドとソ連との戦争は1939-1940、1941-1944の二回発生した(高校世界史の範囲)。 4. 太平洋戦争の過程. ミャンマー人の感覚からすると、同じ国の人間に平手打ちをすることはありえない。 ということで今回はその時代を取り上げようと思う。 太平洋戦争前における日本軍の2度にわたるフランス領インドシナ占領。日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援蔣ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。 それに調査の結果では、約90%の人が平和国家としての日本を評価している。 日本兵が来ると、現地の住民からは「バカヤロー、ドロボー」という罵声や石が飛んできたという。, 二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラ と石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。, 戦争中、東南アジアの人たちが心の底から嫌ったことに、日本人のビンタ(スラップ)がある。 「そんなはずはない。同じ国の人間があんなひどいことをするはずがない」と言う。, 当時、ミャンマーはイギリスに植民地支配を受けていた。 太平洋戦争で日本が負けた理由. 前回見たように、日本軍は1941~42年前半、東南アジアに進出してこの地域のほぼ全域を占領、軍政を始めました。 シンガポール・日本占領時期死難人民記念碑(血債の塔 ) 1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期の市民戦没者追悼のため建設された。 日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った これは、東南アジア全体に言えることです。例えばビルマの場合、日本は形式的にはビルマの独立を認め … でも東南アジアでは、こんな日本の当たり前は非常識や無礼でしかない。 1986)、『近代日本と東南アジア』(岩波書店、1996)。最近出されたものですと、『東 南アジアから見た近現代日本-「南進」・占領・脱植民地化をめぐる歴史認識』(岩波書 店、2012)など、多数の著作・論考を発表されております。 所を設けた。陸軍省自らも開戦前から慰安所の設置を計画しており、占. ・外国人と英語で話ができるようになる。, 「broaden your horizons」 いまは2019年だ。 ^ これに、日中戦争と後の太平洋戦争も加える。 3. 「侵略」「進出」「植民地」「占領」という言葉から察するに、太平洋戦争のとき、日本軍が東南アジアでしたことを気にしている人が多いのだろう。 「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。(中略)民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配に対抗した。 そのあとミャンマー人から、「あの人間はどこの国の人間なのか?」と質問を受けた。 1937(昭和12)年7月7日に起きた「盧溝橋事件」に端を発した日中の武力衝突は、全面戦争となり、泥沼の様相を見せ始めていました※。 1938(昭和13)年末、近衛文麿首相は戦争の目的が日本・満州・中華民国(日・満・華)の三国連帯による「東亜新秩序」建設にあることを声明しました。 1年以上 … ・事実にもとづく歴史認識で韓国と付き合うためのてがかりを提供する。 日本が東南アジアを侵略した理由. 領した地域にはすぐに慰安所が開設された。東南アジアの慰安所 … 1945年9月 - ベトナムがフランスから独立。 太平洋戦争中は日本占領下。 1946年7月 - フィリピンが独立。太平洋戦争中は日本の占領下。 1947年 - インドとパキスタンがイギリスから独立。 1948年 - スリランカ(セイロン)がイギリス連邦の自治国として独立。 シンガポール――東南アジアのど真ん中の位置する小さな国。といっても〈都市国家〉つまり1つの都市が国家をなしている、現代ではめずらしい国です。経済に強い国というイメージもありながら、〈明るい北朝鮮〉とも呼ばれるシンガポール。なんだかふし… 1. 太平洋戦争とは 「1941年12月8日~1945年8月15日」の間に、おもに「アメリカ・イギリス」と「日本」が戦った戦争のことです。 「第二次世界大戦」と呼ばれる世界戦争が、このとき行われていましたが、その一部が「太平洋戦争」なのです。 「1941年12月8日」に、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃。のちにこの先制攻撃は「真珠湾攻撃」と呼ばれることになります。この「真珠湾攻撃」から、「太平洋戦争」は始まりました。 「1942年6月5~7日」、「ミッドウェー海戦」で、 … ^ 「 … ほとんどの東南アジアの人たちは80年も前のことを気にしていない。 アジア太平洋戦争が始まり東南アジアを占領した日本軍は各地に慰安. 上の手記では、捕虜の日本人が同じ日本人にビンタをする瞬間を見たアメリカ軍兵士が、「あんな野蛮なことが日本の陸軍では行われるのか」とおどろいている。 次に、東南アジアの各地域に注目するミクロの観点を交えて、太平洋戦争が東南アジア の政治、軍事、経済、社会、文化等に及ぼした影響について述べる。当然のことながら、 太平洋戦争中に東南アジアに生じた変化には、地域によって差異が認められる。 これをされたミャンマー人は当然、心の底からその日本人を憎んだ。, でも安心してほしい。 キーワード検索でお好みの記事が出ますよ。. 1941(昭和16)年12月8日から1945(昭和20)年9月2日の間の約3年9カ月間にわたり、日本と、アメリカ・イギリス・オランダ・中国(当時は中華民国と言いました)を中心とする国々との間で起きた戦争です。 アジア・太平洋の広大な地域が戦場となった結果、敵味方双方でおびただしい数の犠牲者を生み、日本の降伏によって終わりを迎えました。 1940(昭和15)年にヨーロッパのドイツ・イタリアと軍事同盟(三国同盟)を結んだ日本は、アメリカ・イギリス・中国などの連合国と敵対していました。 1… そのことについてはこの記事を読んでほしい。, かつて日本人が通ると「バカヤロー、ドロボー」という罵声や石が飛んできたフィリピンは、80年後にはこうなっていた。, ・外国人から見た不思議な国・日本の姿を伝える。 米軍がそうした日本兵をジープに乗せて移動させたときの様子を、新聞記者をしていたある日本人が手記に残している。 戦争中の日本人は米軍捕虜などにもビンタをしていて、戦後これが「捕虜虐待」として戦争犯罪に認定されたケースもある。, ボクがインドネシアに行って現地の人に話を聞いたときも、日本軍がしたヒドイことの例でビンタをあげていた。これはインドネシアの常識でも考えられないような野蛮な行為で、肉体的な痛みよりも精神的に大きな屈辱を感じたという。, また、ミャンマーに行った日本軍兵士の手記を読んでいたときにもこれが出てきた。 いまでは日本への信頼はとても高いし、アジアで日本文化は大人気だ。 戦争に戦略がない?あり得ないって思います … エントランスへはここをクリック; 地図に見る日本の侵略 (太平洋戦争編)Invasion of Japan(Map) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2017年10月10日公開 Dec.31, 2017 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 <関連サイト> 日中戦争(地図) 日中戦争(資料) 太平洋戦争(地図) 太平洋戦争… たとえばフィリピンではこんな具合だ。, 比島人は最もこれを嫌い、日本軍も比島人をスラップしてはならぬと教えたが、習い性になって、よくピシャリとやっては問題を起し、怨恨の種子を蒔いた, ビンタは当時の日本人には常識で、日本人に対してもよくやっていた。 ©Copyright2020 ゆかしき世界.All Rights Reserved. そのため、第一次世界大戦後に発足した国連でも、 「世界から、人種差別をなくすべきだ!」 「おい、白人どもいい加減にしとけよ!」 と、日本は強く訴えています。 そして当時はアメリカだけでなく、国連に加盟している過半数以上の国々の支持も得ていました。 なので、当然日本の意見が通るかと思 … 質問したミャンマー人はその日本人を自分と同じ支配下にある人間で、ビンタをした日本人をマスターカウントリー(宗主国)の人間と考えたらしい。 日本は20世紀に工業国となった。しかし日本の工業の発達は、外国から輸入される天然資源に頼っていた。その状態は現在までずっと変わっていない。日本にとってもっとも重要な資源は石油だ。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。, Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます). 今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 太平洋戦争の概要や原因が分かったところで本題でもある日本が負けた理由について話したいと思います。 1.連携されていない. 太平洋戦争の火ぶたが切って落とされたのはそんな折でした。 日本がそんなフィリピンを攻略したのは、1941年12月のことでしたが、日本は、そのように現地の人々が、アメリカの植民地政策にあるていど満足していたところに「解放」の旗を掲げてでやってきてしまったのです。 南方作戦(なんぽうさくせん)は、太平洋戦争の開戦時における大日本帝国 軍の進攻作戦 。 陸海軍中央協定で定められた作戦名称は「あ号作戦」 。 日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦(だいいちだんさくせん)」と呼称した 日本や世界の歴史や文化の知識を深めていきましょう。 太平洋戦争を「侵略戦争」と言われ、数々の「反省」をさせられてきた日本。でも、かつて日本軍が進行した東南アジア諸国に親日国、親日家が多いのはなぜだろうか? そう… (フランス領インドシナでの搾取:wikiより) 大航海時代が到来すると、ヨーロッパ諸国の船が東南アジアに来航するようになりました。1511年、ポルトガルはマラッカを占領し海峡を支配します。1641年にはオランダが、ポルトガルからマラッカ海峡の支配権を奪い取りました。 19世紀に入り、イギリスがマラッカ周辺に進出します。1819年、イギリスはシンガポールを買収し貿易港を作りました。このとき、イギリスはオランダと協定を結びます。協定によりイギリスはマラッカ海峡以北のマレー半島を、オ … それは「ビンタ」だった。, 日本がアメリカに降伏したあと、フィリピンにいた多くの日本軍兵士が米軍に投降した。 「オレの上官で日本人だ」と言っても、現地の人は信用しない。 その日本人が何かのミスで上官からビンタをされる。 太平洋戦争の時代、ビンタは日本人の常識で、日本人に対してもよくやっていた。でも東南アジアでは、こんな日本の当たり前は非常識や無礼でしかない。これをされたアジアの人たちはその日本人をそうとう恨んだはずだ。こんな非人道行為はアメリカ軍でも絶対に許されなかった。 これをされたアジアの人たちはその日本人をそうとう恨んだはずだ。, こんな非人道行為はアメリカ軍でも絶対に許されなかった。 あの戦争のとき、日本人が現地の人にしたことで憎まれたこと。 南方作戦(なんぽうさくせん)は、太平洋戦争の開戦時における大日本帝国軍の進攻作戦[1]。陸海軍中央協定で定められた作戦名称は「あ号作戦」[2]。日本海軍では南方作戦間の作戦を「第一段作戦(だいいちだんさくせん)」と呼称した[3]。, 諸計画書類のうち南方作戦計画の全貌を明らかに示しているのが「南方作戦陸海軍中央協定」である[4]。中央協定によって作戦名称が定められ、南方作戦全体の総称は「あ号作戦」に決まった。それぞれの各方面作戦は、フィリピン作戦は「M作戦」、マレー作戦は「E作戦」、蘭領印度作戦は「H作戦」、グアム作戦は「G作戦」、英領ボルネオ作戦は「B作戦」、香港作戦は「C作戦」、ビスマルク作戦は「R作戦」と定められた[5]。, 南方作戦の目的は、香港、マニラ、シンガポールの重要軍事拠点を覆滅して東亜における米英勢力を一掃するとともに、国力造成上の見地からスマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスおよびマレーなどの重要資源地帯を攻略確保することであった[6]。攻略目標は、フィリピン、マレー、ジャワの三つが柱になっていた。そして、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とした[7]。開戦予定日を12月初頭としたのは、日米軍備の比率、特に航空軍備の懸隔が日ごとに不利になること、アメリカの防備が急速に進捗すること、米英蘭の共同防衛関係は緊密となって南方の総合的防備力は急速に強化すること、明春以降になれば北方作戦生起の算があること、作戦地付近の気象関係があることなどが理由である[8]。, 南方作戦はマレー、フィリピン、ハワイ、香港、グアムに対して先制攻撃をもって開始されるが、陸軍は長途の危険な渡洋作戦を行うマレー作戦に奇襲が必要とし、海軍は期待をかけていたハワイ空襲に奇襲が必要とした。マレーの夜半はハワイの明け方にあたり、マレー作戦のコタバル上陸がハワイ攻撃に先行しない限度でなるべく早く行うように規制する必要があった。, 1941年11月10日の東京協定でハワイ攻撃を優先すると陸海軍が確認したが、この攻撃要領ではハワイ攻撃は機動部隊の航空部隊が夜間発艦となっており、11月23日に機動部隊は検討の結果から黎明発艦へ変更し、空襲時刻を一時間半遅らせた。海軍は今さら陸軍に延期を申し出るわけにいかず、夜間発艦のハワイ攻撃に合わせて上陸を予定していたマレー作戦の上陸が先行することになった[9]。対米作戦を重視する海軍はフィリピンを先攻重視して右回りする作戦を主張し、米英可分を期待していた陸軍はマレーを先攻重視して左回りする作戦を主張した。左右の作戦は並行して行われるが、どちらを先攻させるか、あるいは両方同時に攻める二本建てかが問題になったが[10]、マレーとフィリピンを同時攻撃して倒した後、航空基地の推進と相まって、ジャワを攻略する二段攻撃作戦となった[11]。開戦前は陸海軍ともに進軍限界点、攻略範域をチモール島までと考え、オーストラリアまで拡大するつもりはなかった[12]。, 陸軍は南方作戦のため南方軍総司令官の準拠すべき「南方軍作戦要領」、「香港攻略のため支那派遣軍総司令官の準拠すべき作戦要領」、南海支隊長の準拠すべき「南海支隊作戦要領」などが策定された[13]。, 海軍の作戦要領は、在東洋敵勢力を一掃し南方要域を攻略する第一段作戦としていた[14]。海軍はハワイ空襲作戦を独自に決定していた[15]。ハワイ空襲作戦は漸減作戦の一環であり、陸軍参謀本部は南方作戦の戦略的側面掩護のための支作戦ともみなしていた[16]。, 1941年9月3日、日本では、イギリスやアメリカ合衆国、オランダとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。, 1941年10月29日までに陸海軍中央統帥部における作戦計画書類の策定が終わった[17]。11月5日、陸海軍の大本営総長は両軍の作戦計画を上奏して裁可を得た[18]。11月5日、海軍は大海令第一号をもって、「対米英蘭戦争帝国海軍作戦方針」と「南方作戦陸海軍中央協定」が示達され、「適時所要の部隊を作戦開始前の待機地点に進出せしむべき」旨が指令された[19]。11月6日、陸軍は南方作戦の戦闘序列、作戦準備実施に関する大陸命を発令した[20]。, 1941年6月よりマレー半島攻略に向けた訓練を行っていた日本軍による、太平洋戦争における最初の攻撃となった。日本時間12月8日午前1時30分、第25軍はイギリス領マレーの北端に奇襲上陸した。, イギリス海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃したが、マレー沖海戦で日本軍は航空攻撃により両戦艦を撃沈。第25軍はマレー半島西側をシンガポールを目指して快進撃を続け、1942年1月31日にマレー半島最南端のジョホール・バルに突入した。, 第25軍は2月8日にジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。11日にはブキッ・ティマ高地に突入するが、イギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。イギリス軍は10万人が捕虜となった。, 1941年11月26日早朝、南雲忠一中将指揮下の日本海軍第1航空艦隊は択捉島単冠湾よりハワイへ向けて出撃した。日本時間12月8日午前1時30分、第一波空中攻撃隊が発進し、午前3時25分にフォード島へ、次いで真珠湾のアメリカ太平洋艦隊主力へ攻撃を開始した。日本軍の作戦は成功し、アメリカ軍は戦艦8隻が撃沈または損傷を受け、数千人の将兵が戦死するという大損害を受け、太平洋艦隊は大幅な戦力低下に追い込まれた。, 12月8日午後、日本軍はアメリカ領フィリピンのクラーク空軍基地を空襲した。第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。, 12月9日、第23軍によるイギリス領香港への攻撃が開始された。準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され、11日には九龍半島から撤退した。第23軍の香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。, アメリカ領グアム島へは12月10日未明に南海支隊と海軍陸戦隊とが上陸した。アメリカは日本の勢力圏に取り囲まれたグアム島の防衛を当初から半ばあきらめていた。守備隊は同日中に降伏した。, 南海支隊は次いで1942年1月23日にオーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルに上陸した。ラバウルは、トラック島の日本海軍基地を防衛し、アメリカとオーストラリアとの連絡を妨害する上での重要拠点であった。守備隊のオーストラリア軍は2月6日までに降伏した。, アメリカ軍は空母機動部隊によるマーシャル諸島などへの散発的な空襲を行っていたが、日本軍のラバウル進攻を察知し、空母レキシントンを基幹とする機動部隊を派遣し、一撃離脱に限定した空襲を計画した。しかし2月20日に日本軍に発見され攻撃を受けたことから、作戦継続を断念して引き返した(ニューギニア沖海戦)。, アメリカ領ウェーク島は中部太平洋におけるアメリカ軍の重要拠点のひとつであった。12月11日、日本軍の攻略部隊はウェーク島へ砲撃を開始したが、反撃により逆に駆逐艦「疾風」と駆逐艦「如月」が撃沈され、上陸作戦は中止となった。21日、ハワイから帰投中の機動部隊の一部を加えて攻撃が再開され、アメリカ海兵隊は激しく抵抗したものの23日に降伏した。, 開戦後、戦況が予想以上に有利に進展したため、南方軍はジャワ作戦の開始日程を1ヶ月繰り上げた。1942年1月11日、第16軍坂口支隊はボルネオに上陸、同日、海軍の空挺部隊がセレベス島メナドに降下し蘭印(オランダ領東インド)作戦が開始された。第16軍は1月25日にバリクパパン、1月31日にアンボン、2月14日にパレンバンと順次攻略していった。連合軍の艦隊はスラバヤ沖海戦とバタビア沖海戦で潰滅させられ、第16軍は3月1日に最終目標のジャワ島に上陸した。ジャワ島の連合軍は3月9日に降伏し、予想外の早さで蘭印作戦は終了した。, 第15軍は12月8日以降タイ国内に順次進駐し、タイ・ビルマ国境に集結した。1942年1月18日、第15軍は第33師団と第55師団をもって国境を越えイギリス領ビルマへ進攻し、3月8日にラングーンへ入城した。さらに第18師団と第56師団の増援を加えて4月上旬から北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させて5月下旬までにビルマ全土を制圧した。, マレー沖海戦で主力艦艇を失ったイギリス東洋艦隊はセイロン島へ退避していた。日本海軍空母機動部隊は1942年4月にベンガル湾へ進出し、コロンボ基地とトリンコマリー軍港を空襲した。イギリス東洋艦隊は反撃を試みたが空母1隻、重巡洋艦2隻他を失った。, 南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。16万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は1万人に満たなかった。この太平洋戦争緒戦の南方作戦は日本軍の快進撃のうちに終わった。, 本土がドイツ軍による攻撃を受けていたイギリスと、同じく本土をドイツ軍に占領されていたオランダは、その後各地で反攻に出るまで時間がかかり、本土に大きな被害を受けなかったアメリカは数か月をおいてわずかながら反攻を始めたが、その後も日本軍の猛攻を受け続け劣勢に回ることを余儀なくされたアメリカ軍は、その後も各地で後退を余儀なくされたうえに、本土に対する日本海軍艦艇による攻撃や艦載機による空襲すら受けるようになった。, その結果、1942年初頭に日本軍はビルマからソロモン諸島まで東西7,000キロ、南北5,000キロという広大な戦域に手を広げることになった(ソロモン諸島の戦い)。日本海軍は激戦の中の1942年6月にミッドウェー海戦において敗北したが、アメリカ海軍もその後の各地における度重なる敗北で、稼働空母が1隻も無くなるという窮地に追い込まれ反攻が思うように続かなかった。, さらにイギリス海軍もセイロン沖海戦によりアフリカ南部への撤退を余儀なくされた上に、避難先のマダガスカルにおいても日本海軍の攻撃を受けるなど、インド洋の制海権を失うことになる。またオーストラリアも本土北部が1943年2月に至るまで日本軍機による度重なる爆撃を受けたほか、シドニー港が日本海軍潜水艦の攻撃を受けるなど日本軍の攻撃に苦しめられた。, しかし、わずか1国のみでイギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、そして中国大陸における中華民国軍などの数国と対峙することを余儀なくされた上に、当初の予想を上回るほど占領区域が広がり、補給線が伸びきった日本軍は、1943年終盤までは各地で優位に戦いを進めたものの、やがてガダルカナル、ニューギニア、インパールなど各地で兵力不足と補給不足のまま長期戦に引きずり込まれ、1944年以降国力を急激に消耗してゆくことになる。, 参謀本部部員だった瀬島龍三は「南方作戦は南方の局地作戦という見地に立っていた。グローバルの視点に立って南方作戦を考えてなかった。ローカルウォアではなくワールドウォアであるという認識が欠けていた」と反省している[21]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=南方作戦&oldid=78562625. 先日ある老人と話をしているときに、ふと東南アジアの話になりました。老人は元軍人で、次のような独自の歴史観を語りました。「戦前の東南アジアは、西洋諸国の植民地支配下にありとても独立国といえるものではなかった。独立してたのは
2020 太平洋戦争 日本が 東南アジア を占領 した 理由