宮内省 大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵の青年期から主厨長になるまでを描いた作品。 2017/11/05 - Pinterest で T.S ALBUM さんのボード「天皇の料理番」を見てみましょう。。「天皇, 佐藤健, 健」のアイデアをもっと見てみましょう。 【天皇の料理番】第3話感想. と情熱をもって食べられる大好物を持っている人は、幸福なのじゃないか。別に何も食いたくも飲みたくも――なんてことになったら、人間まことに寂しいことじゃないか――と。, 秋山は、「並べて書くのはもったいないが」と前置きした上で、「忘れ得ぬ二人の婦人」として、「一人は貞明皇后さま、もう一人は亡くなった先妻(注=秋山俊子)」を自著で挙げ、以下のように回想した[6]。, 先妻俊子とは、秋山(旧姓「高森」)が26歳の時に結婚した(当時俊子は17歳。同年8月に秋山は満年齢で25歳になっているので、秋山の戦後の著書における回想とは言え、両名とも数え年であると考えられる)[6]。雙葉女学校に通う熱心なカトリック信者であったという。秋山によれば、「心の優しい女」で、「この家内を熱愛していた。世界中に比べもののない、いい家内だった」という。, そのため、彼ら夫妻の三人目の子が6歳になった時に俊子が肺結核に罹り、寝込んでしまってからは、「世の中が真っ暗になってしまう思いだった」という。, 発病して一年半目にはいよいよ重症となり、痰も自分で吐き出せなくなり、秋山がその都度吸い出してやった。, 俊子の死後、秋山は「腑抜けのように」なり、忌中35日の間、勤めを遠慮して家に引き籠もったという[6]。, 俊子は、臨終の際に秋山を枕元に呼び、自分の財布に付けてあった鈴を秋山の手に握らせ、以下のように言ったと秋山は自著で語る[6]。, 「たったひとつ、わたくしの心配なことは、あなたが癇癪もちでいらっしゃることですの。あなたのお仕事は、ほんとに、この上ない大事なお仕事です。お願いですから、役所へいらっしゃいますとき、坂下門をおはいりになりますときに、この鈴を鳴らしてくださいませ。そして、私が心配しておりますことを、思い出してくださいませ」, そう言い残して俊子は死去したが、秋山はその鈴をいつもポケットに入れて持ち歩き、坂下門を入る時には、必ずそれをチリチリと鳴らして自戒のよすがとしたという[6]。, 「皇太后さま」(貞明皇后)からは先妻俊子を失った秋山に対し、お悔やみの言葉と頂戴ものがあったので、俊子の忌明けの日にお礼言上のために青山の大宮御所に参上したところ、皇太后宮大夫入江為守を通じて、秋山に一体の人形を下賜したという。秋山は当初その人形の意味が分からなかったが、貞明皇后が夫である大正天皇を失ってまだ間もない頃だったので、「最愛の妻を亡くした私の気持をほんとうにお解りくだすったのだろう。そして、この人形の意味は、あとに残った子供達を可愛がって育てよ――という御心なのであろう」と推察した。, そう思うと急に涙が溢れ出し、泣き顔を通行人に見られたくないので、わざわざ暗い道を選んで自宅まで帰ったという[6]。, 秋山には泊りがけで遠方に競馬観戦に行く趣味があった。ある時(昭和時代)、大阪方面に競馬観戦に行っていると、宿泊先の大阪ホテルに宮内省大膳寮から電話がかかってきた。それによれば、「大宮さま」(皇太后=貞明皇后)が、中華料理で客をもてなしたいとの事で、大膳寮職員が秋山は今競馬観戦で遠出していると啓上すると、それならば秋山が帰って来てからでいいとの事であった。それを聞いた秋山は、「そうか。そいじゃ、すぐ帰る」と返事し、夜行列車で急ぎ帰京した。, それを知った貞明皇后は、「わざわざ帰ってこなくてもよかったのに…」と秋山を気遣った事が、後で秋山の耳に入った。 それ以降、秋山は競馬観戦で遠出する事をやめたという[6]。, 1936年(昭和11年)11月27日、突然皇太后(貞明皇后)が大膳寮の厨房を視察する事になった[23]。, 明治以降、秋山が知る限り皇族が厨房を訪問する事は前代未聞であり、そもそも貴人が厨房に近付く事を忌避する風習が日本にはあった。秋山は、それは昭和天皇の母として、そして女性として、厨房を見ておきたいという自然な気持からであろうと推察し、そして感激した[23]。, 皇太后厨房視察の報を受け、秋山には思うところがあり、宮内省内の床屋に行き、残り少なくなっていた髪を丸刈りにしてしまった。当時秋山は、ドイツ訪問時に買って来たブラシで、すだれのようになっていた髪を後生大事に梳かしていたので、役所内では「厨司長のブラシ」と呼ばれて一種の名物になっていたが、その一方で、髪の毛というのは料理人の仕事にとって何のプラスにもならず、たとえコック帽を被っていても髪の毛に付いたゴミが料理に落ちないとも限らないという心配もしていた[23]。そういう矛盾を自分の中に抱えていたが、皇太后の厨房視察を前にして、髪への未練を断ち切る決心をしたのであった。皇太后訪問後に、側近が、秋山がこれを機に髪の毛を丸刈りにしてしまった事を啓上したら、皇太后は、「おや、おや、それを知っていたら、帽子を脱がせてみるのだったのに、と冗談をおっしゃった」と、秋山は伝え聞いた[23]。, それ以降、秋山の髪の毛も秋山の意を体したのか、減り方の速度を増し、「掘りたての新ジャガ」と吉川英治が形容したようになったという[23]。, 白衣を着た皇太后が、やはり白衣を着た宮内大臣や宮内次官(時期からすれば、大臣は松平恒雄、次官は白根松介となる)、その他の供奉員を従えて厨房にやって来たが、皇太后が厨房の入口で女官を差し招くと、女官が皇太后の足元に真新しいスリッパを差し出した。皇太后がスリッパに履き替えると、女官らも同じくスリッパに履き替えた。普段厨房には外部の人が入る事は無いので、余分な上履きの用意が無く、慌てた高官らも上履きを探させ、見付けられずに結局厨房に入れずじまいだった者も発生した[23]。 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、明治 - 昭和時代の日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。位階・勲等は正四位勲三等[1]。フランス料理アカデミー名誉会員[2]。, その生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる[3]。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。, 1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村(国高村村国、現・越前市村国三丁目)において[4]、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった[4]。幼少期にはおさまらない性質だったという[5]。10歳の時、学校友達が禅寺の小坊主になっているのを見て自分もなりたくて堪らなくなり、無理を言って寺に入れさせてもらったが[6]、その禅寺でもいたずらは治まらず1年で追い出されたという[7]。(因みに、小僧時代の法名は「徳有」[1]。)武生町橘にあった「八百勝」で働く。, 秋山が自著『味』で記したところによれば、鯖江にあった陸軍の連隊を訪ねた際に、食堂でそれまでに嗅いだことのない香ばしい匂いに触れたことが、西洋料理との出会いであったという[5]。実家の仕出し屋が三十六連隊の将校集会所の賄いをやっていた関係で集会所を訪ね、そのとき初めて口にした洋食・カツレツの味に衝撃を受け、西洋料理のコックになることを志した[8]。高等小学校を卒業したのち[9]、16歳で単身上京し、華族会館の見習いとして料理人としてのキャリアをスタートさせる[10]。そこで3年間働いたほか、駐日ブラジル公使館、築地精養軒で働いた[8][11]。精養軒では、フランスのオテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエに師事した第4代料理長・西尾益吉の下で学び、西尾に倣ってフランス行きを決心し[8]、仕事のあとに料理原書を持ってフランス語の個人レッスンに通った[7][8]。その後「東洋軒」三田本店の3代目料理長に就任する[12][13]。, 1909年(明治42年)から、本格的な西洋料理修行のため私費でフランスに渡航する[11]。料理人修行のための渡欧は、同時代では稀なことであった[11]。ベルリンのホテル・アドロンの調理場を経て、パリの日本大使館の紹介により、オテル・マジェスティックの厨房に入り2年間修行、苦労の末に料理の腕を認められるようになった[14]。その後、キャフェ・ド・パリに半年[8]、オテル・リッツ・パリにおいてオーギュスト・エスコフィエの下で半年働いている[15]。, 1914年(大正3年)に予定されていた大正天皇即位の礼を控え(実際は同年4月に昭憲皇太后が崩御したため、翌年に延期された)、外国からの賓客に本格的なフランス料理を提供できる料理長として、1913年(大正2年)、パリの日本大使館の推薦により宮内省に招かれて帰国し[15][16]、東京倶楽部料理部長を経て、新設された宮内省大膳寮の初代厨司長に任じられた[15]。なお、同年7月、下宿先の一人娘、秋山俊子と結婚して秋山家へ入籍、秋山姓となる。1915年(大正4年)に行なわれた大正天皇の御大典で18か国の賓客を本格的なフランス料理でもてなす。このとき、支笏湖産のニホンザリガニ4,000個体を本州に運び、うち3000匹が御大典に使われ、残りは御用邸のある日光に放流された[17]。, 1920年に宮内省の命により再び渡仏して研究を続け、1921年の皇太子裕仁親王の欧州訪問の際には一行に随行して各国主催の晩餐会の現場を見学し、その後アメリカに渡りニューヨークの有名レストランを歴訪視察して1922年に帰国した[18]。, 1923年(大正12年)、1600ページに及ぶ『仏蘭西料理全書』を刊行[2]。『仏蘭西料理全書』は、1966年に新版が刊行されるなど、第二次世界大戦後に至るまで西洋料理を学ぶ者の「バイブル」とされた[2]。このほか、一般向けに『味』などの書籍を刊行した。1971年(昭和46年)には、フランス料理アカデミー名誉会員、パリ調理士協会名誉会員、フランス主厨長協会会員になった[9]。, 皇室に対する忠誠心が厚い事で知られ、また、料理技術の向上の為には貪欲かつ謙虚に学ぶ姿勢も知られ、時には優れた技術を持つ世間的には格下とされる料理人にも頭をさげて学ぼうとする姿勢が見受けられたという。, 昭和になってからは、昭和天皇の「埋もれゆく郷土料理を記録するように」という意思を受けて秋山が東北地方の郷土料理を調査し、その献立などについての記録を記したり[19]、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀が訪日した際に、溥儀が主催した食事会では満州料理の調理を秋山自らが手がけたことなどが伝わっている[19]。, 1972年(昭和47年)、84歳で現役を引退[2]。1973年(昭和48年)に勲三等瑞宝章を受章[2]。翌年没した。1974年(昭和49年)、没後に従四位、ついで正四位に叙された[1]。, 大正2年(1913年)、宮内省大膳寮厨司長に就任した頃の秋山徳蔵(就任は同年11月で、それに先立ち同年7月に結婚し、秋山家の婿養子となった[6]), 昭和24年(1949年)頃、皇居での立食の宴にて秋山徳蔵(左)、寿司をつまむ昭和天皇(右)と共に, 最初の妻・秋山俊子との間に、匡、栄子、鉄蔵の三子をもうけるも、俊子は1928年(昭和3年)に肺結核で死亡。翌年、岸本きくと再婚し、三郎、四郎の二子を得る。, 秋山(結婚前なので高森姓)は1904年(明治37年)に上京し、華族会館で修行を始め、翌1905年(明治38年)には築地精養軒に移り、さらに1907年(明治40年)には三田の東洋軒に移った[1]。 秋山としては、「たまにはすし米のような純白の御飯をさしあげたいと思った」し、また、「半生を美味追求に没頭してきた」身としてはそれは苦痛でもあったが、「思召しだから仕方がなかった」という[6]。, 昭和天皇が当時の日本の食糧事情を考慮して白米を遠慮する傾向はパンにおいても同様であり、「真っ白なパンはもったいないから、何か混ぜたらどうか」と側近を通じて打診があった。 太平洋戦争後の食糧難時代は、一日のうち他の二回は、うどん、蕎麦、蕎麦がき、すいとん、代用パン、サツマイモ、馬鈴薯などであったという[6]。 7 of the novel series "天皇の料理番 秋山四兄弟". 秋山は元々石渡とは知り合いで、石渡の宮相時代(つまり秋山が所属する宮内省のトップだった頃)は個人的な付き合いを控えていたが、戦後石渡が公職追放となり、成城の自宅に閑居してからはよく行き来するようになった[23]。, 1950年(昭和25年)の8月に糖尿病が悪化し、一カ月程入院したが、退院後、秋山は砂糖の代わりにサッカリンだけを甘味料として用いたお汁粉を作り、石渡邸に持って行った[23](サッカリンはその後発ガン性が取り沙汰されたが、当時はカロリー無しの有効なダイエット甘味料と見做されていた)。, 秋山は、「甘いものも過ぎれば毒だ」と思ってはいたが、その時の石渡の喜びようを思い出すと、以下のように考えるようになったという[23]。, なんでも、これはうまい! 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、明治 - 昭和時代の日本の料理人。 大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。 位階・勲等は正四位 勲三等 。 フランス料理アカデミー名誉会員 。 弟が篤蔵の成功を伝える新聞記事を読み、周太郎が微笑み、満足して亡くなる場面でした。, 半年間で20キロ痩せたそうですが、それ以上の役作りで、本当に死にそうな人みたいで、特に臨終シーン、表情も素晴らしかったです(^^), 今迄、篤蔵を応援してきてくれただけに、彼の喜ぶ姿、嬉しかったですが、死んでしまい、切なかったです。, 「花燃ゆ」でも吉田稔麿(瀬戸康史)が死んでしまいましたが、それとは脚本が大違いで、こちらは感動的でした(^^), その前、御即位の御大礼の祝宴の様子と、篤蔵から来たハガキに書かれた献立をふきが周太郎に読んで聞かせるシーンを交互に映し、兄やんが見守っているかのようでした(^^), 「驚きに満ちたフランス料理の数々は、宴を大きく賑わせ、外国の来賓からも『れっきとした一等国の祝宴であった』との賛辞を受けた」, 東京の篤蔵に「シュウタロウ シス チチ」と電報が届き、川辺で落ち込んでいた所に俊子が来ました。, 篤蔵は、前回、フランソワーズにプロポーズしたばかりですが、もうザリガニ絡みでしか思い出さないようです(^^;), それにしても、俊子さん、前回の冒頭、誘拐されたかと思ったのですが、そうではなく、子供の本当の母親が子供を抱かせてほしいと来ただけで、あの子は俊子が生んだのではないよう(汗), そして、篤蔵から昔聞いた「バンザイ軒」を訪れて覗いていたら、親父さんが格安で部屋を貸してくれたとの事。でも、鯖江にばれて連れ戻されたくないので、「時子」という偽名を使っていました(^^;), 俊子は、今、お産婆さんをしていて、前回の最後で吉原に行ったのも、吉原の人から産婆の要請があったからのようです(^^;), いつもだったら、そんなに視聴率がほしいのかと、怒ってしまうところですが、このドラマが好きなので、違って良かったと、ほっとしました(^^), そして、前回、パリに来て3年と言ってた気がしたのですが、今回、パリで5年の修行を経てと紹介しました。, 順番が前後しますが、今回の主要な内容は、天皇陛下の料理番 「大膳寮の厨司長」に26歳という若さで大抜擢された篤蔵が、大正天皇の即位の御大礼の2000名の祝宴を任され、苦労して、無事成功する話でした。, 1913年、明治天皇崩御の翌年、徳川最後の征夷大将軍・徳川慶喜公が逝去した年です。, グランシェフになるのも初めてなのに、いきなり2000人分との事で、献立で困ってしまい…, 宇佐美「厨司長がおまえでなきゃいけなかったのは、おまえがオテル・リッツを知っているからだ。, 帝王と言われるエスコフィエの料理と、そこに集まる美食家達をその目で見てきたからだ。, 大膳の長である大膳頭・福羽(浅野和之)が捜してくれて、軍隊を出して、北海道から調達。, それにしても、林檎、切ってはいけなくて、天皇陛下、そのまま食べるとは可哀想(^^;), そういうのを宮中では忌み言葉と申しまして、故に、果物は切らぬ事がしきたりになっているのかと存じます」, 宮前(木場勝己)のせいでザリガニが逃げてしまったので、責任を取って、退職届を篤蔵に渡しましたが、篤蔵は返しました。, 確かに、口うるさそうですが、悪意からではないし、篤蔵の知らない古くからのしきたりとか、いろいろ知っていそうなので、こういう人もいた方が便利でしょう(^^), 帰国した篤蔵(佐藤健)は皇居・大膳寮を訪れる。大膳の長である大膳頭・福羽(浅野和之)に案内され厨房に赴く篤蔵を待っていたのは篤蔵よりも年上の大膳のシェフ達であった。そして、福羽から聞かされたあまりにも驚愕なご大礼の内容にいきなり窮地を迎える篤蔵だった・・・ そして、天皇の料理番になる事を誰よりも喜んだ兄・周太郎(鈴木亮平)は以前よりも明らかに痩せ衰えていた。一方、俊子が向かった先は・・・, [第1話]15.1%   [第2話]11.4%   [第3話]12.0%   [第4話]12.7%, [第5話]14.5%   [第6話]14.1%   [第7話]14.9%   [第8話]15.3%, <TB URL> http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/574086/61780017, 【半沢直樹(2020年版)】最終回(第10話)感… この人ならばと思う人には、翌日鴨を持っていって、御機嫌をうかがった。料理人、ハウスキーパー、洗濯屋などの世話も、いろいろとまめにしてやった。, 秋山はコートニー・ホイットニー准将(1950年=昭和25年に少将に進級[21])宅に料理人を世話したが、ホイットニー夫人と喧嘩して出て行ってしまった。そこで、秋山は直ちにホイットニー宅に呼び出された。イライラする夫人は、すぐに代わりの料理人を用意しろと言う。秋山は、そうそうすぐに用意出来るものではないと弁明すると、ならばあの料理人を呼び戻せと言い返してきた[6]。, 秋山は辞めた料理人の家に行って宥めすかしたが駄目であった。仕方なくホイットニー宅に戻ってその事を報告すると、夫人は以下のように恫喝した[6]。, 「私達は、お前の国の仕事をするためにきているのです。お前の国を助けるために、仕事をしているのです。その私達に食事をさせないのですか。食事をしなければ仕事はできません。それは日本の運命にかかわることです。, 秋山は夫人の言いがかりを「とんだ春秋の筆法」だと思ったが、その当時の秋山としては、夫人の「日本の運命」という言葉にドキンとし、ついに大膳寮の料理人を一人、つなぎとしてホイットニー宅に派遣し、十日間のうちに代わりの料理人を見付けた[6]。, 春が近くなり、鴨が段々いなくなると、今度は鴨場ではなく、三里塚の下総御料牧場にGHQ幹部らを招待した。秋山らも連合軍専用列車に同乗して現地に行くのだが、上野駅に行ってみると、元のお召列車が連合軍専用列車に改造されていた[6]。 役所内の細かいルールなど知るはずもない皇太后が事前に上履き用のスリッパを用意し、高官らが用意せずに来た事で、秋山は皇太后の気配りに俄然感極まった[23]。 Re:【エール】期間平均20%超え&【おちょやん】初回視聴率・低発進(汗)(12/01), Re:【おちょやん】第2週「道頓堀、ええとこや~」ネタバレと視聴率&第1週感想(12/05). 第3話は 黒木華 演じる俊子に泣かされました。 いじらしすぎたり、感動したり、いちいち泣けましたよ。第3話はまさに俊子回、黒木華の回でした。 最終章・皇居編「皇居編~ザリガニと御即位の御大礼」第9話の視聴率は、前回の15.3%より更に上がって、16.7%(関東)。このドラマの最高視聴率でした♪(^^)瞬間最高視聴率は、9時57分の18.1%。篤蔵が太陽に向かって「兄やん、わし、ちゃんとできてましたか? GHQ幹部の誰が病気だとか、誰の誕生日だと聞けば、盆栽や花を届けた[6]。 鈴木亮平さんは、TBS系列の毎週日曜夜9時枠にて放送されている日曜劇場『天皇の料理番』に秋山周太郎 役で出演しています。昨日は第6話が放送されました。 あらすじと感想故郷に駆けつけた篤蔵(佐藤 … 『天皇の料理番』第9話が放送になります。 で、ですね ここは一つ 観ていただきたいのです。 第9話 思い出の第9話 台本を開くと この回だけは 周太郎に1ページも使ってくれていました。 愛情あふれる現場なのです。 天皇の料理番、第9話 放送後には、 佐藤健主演。直木賞作家・杉森久英の「天皇の料理番」が原作。片田舎の青年が天皇の料理番を勤め上げるまでに成長する、史実に基づいた究極の人間愛の物語。(c)tbs 昨夜の 天皇の料理番は、よかった。泣いた方も多いと思う。篤蔵の転換期だ、冒頭から一時間でめまぐるしい動きだった。今の結婚生活に入ってから、何年ぐらいしてからかな・・・悲しい、辛いでは泣かなくなくなり、感動した時のみ涙が出 Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved. 戦前でも、「半つき米に丸麦混入の御飯で、おすしの場合も、白米の使用をお許しにならなかった」という[6]。, 日本が戦時体制に入ってからは、昭和天皇は「さらにひどいものを召し上がった」と秋山は語る[6]。, まだ食糧事情がそれほど行き詰まっていない時期から、昭和天皇は「やはり国民と同様に外国米を混ぜよ」と指示を出し、「半つき米に、丸麦、それに外米を混ぜたもの」を食べていたという[6]。 かつて宮内省入省間もない時期に、厨房に土足で入って来た高官を怒鳴り付けた秋山からしてみれば、ルールが無くとも、調理場ならば当然清潔な履物を用意して来るのが当然であり、皇太后の配慮はまさに身分の上下を超えた「真心」であろうと感じ入り、「涙がこみあげてくるのをどうすることもできな」かったという[23]。, ある日、皇太后(貞明皇后)と以下のような会話が交わされた[6]。(会話中の秋山の年齢や会話内容からすれば、GHQによる占領期間中となり、秋山が昭和天皇と日本の立場を少しでも有利にするために、GHQ幹部らに接待攻勢をかけていた時期となる。), 「いや、私は六十以上は年をとらないことにいたしました。いまの日本の有様では、のんきに年なんかとっておられません。それで、今年からは一つずつ若くなることにいたしました」, と、「たいへんお笑いになった」という。 2020年09月09日 天皇の料理番!!大好きでした! 篤蔵さん、俊子さん、兄やん 新太郎さん、辰吉さん、お父さん お母さん、お梅さん、フランソワーズ 宇佐美さん 本当にありがとうございました! 最後は、この言葉で… バンザーイ!バンザーイ!バンザーイ! コメント(16), 伊勢谷友介さん、大麻取締法違反容疑で逮… 当時は、何か間違ったやり方をしているとまずは先輩達から鉄拳制裁が飛び、その後で教えてくれるのが普通だった。しかし秋山はひたすら腕を磨きたかったので、体罰ぐらいは何とも思わず、むしろ何か新しい事を知る嬉しさの方が勝ったという[6]。, 秋山が修業を始めた頃、最も困ったのは、先輩達がレシピというものを教えてくれない事であった[6]。秋山のような駆け出しの下っ端達は、ただ上司や先輩達から命ぜられるままに仕事をするだけで、それらが最終的にどういう姿になるのかさえよく分からず、秋山としても何が何でもレシピを見たいという欲求が募った[6]。, 秋山が築地精養軒で修行していた頃の料理長は西洋帰りの西尾益吉であった。西尾もやはり、横文字で書いたレシピをどうしても見せてはくれなかった。そこで秋山はある晩事務所のガラス窓を叩き割って、西尾のレシピを盗み出すという暴挙に出た。秋山はそれを一晩中かかって書き写し、翌日早めに出勤して元の場所に戻そうと思っていたが、明け方就寝したところ、うっかり寝過ごしてしまい、慌てて出勤したので盗んだレシピを元の場所に戻すのを忘れてしまった。当然ながら大騒ぎとなり、厳しい詮議が行われ、弱り果てた秋山は盗んだレシピをこっそり捨ててしまおうかとも思ったが、料理人にとってそれがどれだけ大切なものかを分かっていたため、捨てる事が出来なかった。そこで覚悟を決めて名乗り出て平謝りしたが、当然の事ながら酷く叱られた。すんでのところで解雇されるところだったが、間に入ってとりなしてくれる人がいたため、漸く無事に収まった[6]。, 欧州での修行中、秋山は、小柄である事や、東洋人である事でしばしば侮辱されたが、完全実力主義社会の恩恵で、徐々に自分の地位を上げる事に成功した。その結果、フランスは秋山にとって居心地のいい国となり、帰国を躊躇った程であった(後述)。しかし日本では、秋山が宮内省大膳寮の厨司長となってからも、社会では料理人に対する偏見は根強く存在した(後述)。, 西洋料理を何としても研究したいと念願した秋山は、1909年(明治42年)、父からの資金援助を得て、欧州に渡る事になった。まず船でロシアのウラジオストクに渡り、そこからシベリア鉄道で欧州に向かった[6]。, 秋山が欧州に修行に行った頃は、ちょうど日本が日露戦争に勝利した後であり、秋山は大いに得意だったのだが、秋山がまず修業を始めたドイツのベルリンでは日本という国さえ知らない者も多く、「街のアンちゃん」達や労働者になると、十人中八人ぐらいまでは秋山を侮蔑的に中国人と呼んだ。更に、黄色人種であり、秋山は小柄でもあったので、しばしば我慢のならないからかい方をされた。そういう時、秋山はベルリンの在留邦人で文部省特派留学生だった渡辺銕蔵に教わった「作法」で対応した。わざと困った顔をして身体が触れるか触れないぐらいに近寄り、相手の急所を蹴り上げて一目散に退散したという。この方法で、秋山は一度も失敗した事は無いと言う[6]。, ドイツでも、一流ホテルやレストランはフランス料理が主流であり、料理人も皆フランス人だったので、秋山もドイツでの修行は前座・小手調べ程度として、追ってフランスに渡った[6]。, 秋山はフランスをすっかり気に入ってしまい、また、自分は次男でもあるので、一生フランスで過ごそうとも考えたという。オテル・リッツ・パリで半年勤務した後、次に南仏ニースのオテル・マジェスティックに移って7カ月経過したところで、駐仏日本大使栗野慎一郎から、大正天皇の御大典での賓客向けの、本格的な西洋料理の指導者として帰国して欲しいとの要請があった。秋山としては、今まで世話になった栗野からの要請でもあり、しかも御大典での料理の総指揮となれば一世一代の大仕事とも思われたので、引き受ける事にした。但し、当初は御大典の仕事が済んだら、再びフランスに戻る事も考えていたほど、未練があったという[6]。, 秋山は宮内省に内定後、半年以上の身辺調査を経て、1913年(大正2年)11月に正式に大膳寮厨司長に任じられた[6]。, 秋山が宮内省大膳寮に採用されてから僅か一カ月程しか経っていない頃、厨房の裏口から、突然立派な風袋の男性と、そのお供らしき洋服姿の男性らが4、5人入って来た。男らは厨房用の上履きに履き替えず、下足のまま入って来たので秋山は激怒し、男の前に立ちはだかり、それを見咎めて「馬鹿野郎」「間抜け野郎」と怒鳴り付けてしまった。男らが引き返した後、古い厨司が言うには、先ほどの先頭の男は内匠頭片山東熊であるという。片山と言えば、東宮御所(赤坂離宮。現在の迎賓館)を設計した著名な工学博士でもあったが、秋山は多少言い過ぎたかなとは思ったものの、気にかけないでいた。すると、今度は正規の入口から、白衣を着て上履きのスリッパを履いた集団が入って来た。秋山の上司である大膳頭福羽逸人に案内された片山ら一行であった。さすがの秋山も若干25、26歳の若輩者が五十年配の宮内省高官を怒鳴り付けてしまった事で気まずく感じ、そそくさとその席を外してしまった[6]。, それから小一時間程経ってから、上司の福羽から呼び出された。秋山は、これは叱られるなと覚悟して大膳頭室に入ったら、以下のように諭されたという[6]。, 「さっき片山内匠頭が厨房を拝見にこられたんだが――裏口から、土足で入られたそうだね」, 「片山さんも、悪かったといっておられた。しかしだね、秋山君。役所では『馬鹿野郎』とか『間抜け野郎』なんて乱暴な言葉は使わない方がいいよ」, 片山も根に持つような男ではなく、また、勤めの初期において福羽のような人格者の薫陶を受けた事が、その後どれほど役に立ったか分からないと、秋山は語る[6]。, 秋山が西洋式に数種類の果物を切って出した時、宮内次官関屋貞三郎から、果物は切って出すなと咎められた[6]。(注=関屋が次官の頃は、秋山は入省すでに数年を経過している。)すると頭にきた秋山は、「そうですか。じゃア、メロンも、西瓜も、丸ごと出しますから、そうお考えになっといてください」と反論した。関屋も困惑して、以後は文句を言ってこなくなったが、秋山も後で若気の至りを反省したという。しかし、そんな秋山も「果物は切らない方がおいしいこと、もちろんである」と断る[6]。, 秋山が宮内省大膳寮に採用され、フランスに未練を残しながらも帰国したのも、正に大正天皇の御大礼での饗宴「大饗」の料理の総指揮のためであった[6]。, 御大礼での料理のような一世一代の大仕事となると、ついあれもこれもと考えてしまい、メニューの全体像も、逆にこれと言ってとらえどころの無いものになってしまったという。そこで、思い浮かぶメニューを次から次へと削ぎ落としていくと、どうしても落としきれないものが残るという。そうやって残ったものこそが本物であると秋山は語る[6]。, 今回の饗宴の人数は2000人であった。問題は、2000人分の材料を、傷んでも困るので早く買い過ぎず、尚且つ絶対に間に合うように買い揃える事、そして、品質が均等である事であった。秋山は、メニュー作成で苦心している時に、「捨ててみても、落としてみても、頭に沁みついて離れない料理が残ってくる」との事で、その一つが、「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」だったという[1]。, 欧州では食材として親しまれていたザリガニであったが、現在日本国内にも広く棲息するアメリカザリガニとも違い、ヨーロッパザリガニと呼ばれるこの品種は日本には生息していなかった。だが、日本でも北海道に食用に適したザリガニであるニホンザリガニが棲息している事を秋山が知っていた事も、ザリガニ料理を御大典の饗宴のメニューに加えた理由の一つであった[1][注釈 1]。, 秋山は、2000人分のザリガニとなると、予備も含めて3000匹は必要になると見積もった。, たまたま旭川の「師団長」(秋山の著書には氏名が明記されていないが、場所・時期からして、第七師団長宇都宮太郎陸軍中将であると思われる)が大饗の監督責任官すなわち秋山の上司である大膳頭福羽逸人の知人であったため、その協力を得て師団の兵士らを動員して、必要数のザリガニを確保する事が出来た。, 1915年(大正4年)8月、日光御用邸にて大正天皇が避暑中で、秋山らも供奉で御用邸に滞在していた。捕獲したザリガニ4000匹は日光に送られ、御用邸付近の大谷川に生簀を作って入れておいた。さらにそれらのうち半分の2000匹が、同年10月初頭に京都に運ばれた[1]。, 御大典の饗宴は京都の二条離宮にて行われる事になっており、そこにバラックながら立派な厨房が新設された。北海道で捕獲し、日光経由で運び込んだザリガニも、その中の生簀で、四方を金網で厳重に囲い、水道水を出しっ放しの状態にして保管した[1]。, しかし、式典が近付いたある朝、厨房員がザリガニが消えたと報告する厨房員の声に秋山は起こされた。厨房の生簀を確認すると、確かにザリガニは一匹残らず消えていて、秋山らは色を失った。, そもそも厨房には厳重に鍵がかけられており、部外者は完全立入り禁止にしており、隣室には大勢の大膳寮職員が泊まり込んでいるので、盗まれる筈が無かった。今さら代わりのザリガニを確保出来る訳も無く、しかも饗宴の献立表はすでに印刷が終わっており、メニューを変更したところで、献立表の刷り直しはもう間に合いそうも無い[1]。急報で秋山の上司大膳頭福羽逸人も旅館から駆け付けて来た。秋山としても「腹切りもの」だが、「大膳頭とても重大な責任問題」は免れない事であった。, 不可解な事件だけに、皇宮警察官も来て取り調べを開始したが、依然として五里霧中であった[1]。, 3時間ほど経ってから、秋山の部下の一人が突然素っ頓狂な声を挙げ、ザリガニ発見を秋山に知らせた。見ると、厨房の壁際にずらりと並べてあった荷物の物陰に、5、6匹ほどザリガニが固まっていた。その部下がたまたま荷物を一個持ち上げたら、発見したという。そこで秋山は直ちに厨房内の全ての荷物を持ち上げて確認する事を指示した。すると「いるわ、いるわ、あっちに十匹、こっちに二十匹」と、たちまちほぼ全てのザリガニを捕獲し、不足は僅か5、6匹ほどであったという[1]。, 安堵と放心で、秋山はその場に「ヘタヘタと坐り込んでしまいそうになった」という[1]。, 厨房の隣室に寝ていた厨房員が、出しっ放しの水道の音がうるさくて眠れないために、蛇口にふきんを垂らした。すると、光を極端に嫌うザリガニ2000匹全てが、垂れて来たふきんを伝って生簀の外に逃げてしまったのが、理由であった。(厨房は、一晩中電燈を点けておく事になっていた。)[1], 秋山は、「天皇陛下はどんなお食事を召し上がっておられるのか」と「会う人ごとに」尋ねられた[6]。秋山自身は「語りたくない。語ってはならぬことだ」と思っていたが、天皇は「金の箸」で食べるとか、コメは「一粒ずつ選ったものだ」という噂が出てくるに及び、真実を語る事を決心したという[6]。, 秋山に言わせれば、「陛下(注=昭和天皇)ほど民主的な方はいないと信じて」おり、「四十年間(注=1955年(昭和30年)発行の著書における発言)お傍に仕えた私がいうのだから、誰が何といおうと、真実である」との事である。さらに言うには、「そのへんにいるつまらぬ役人どもや、政治家たちの方が、ずっと非民主的である」と断ずる[6]。, 秋山によれば、 1955年(昭和30年)現在で、昭和天皇は「配給の七分づきの米に、丸麦を混ぜたものを召し上がっておられる」との事であり、さらにそれも一日に一食だけ、「あとはパンを召し上がる」との事である。
2020 天皇の料理番 兄やん 最後の言葉