Mother Jones. レ・ドゥク・ト 第二次大戦中、日本軍がベトナムで食料奪い200万人餓死させたという事実があるのでしょうか?。ashwingsfとゆう在日さん? Chang Pao-min, Kampuchea Between China and Vietnam (Singapore, Singapore University Press, 1985), 88–89. 6 (9). K. K. Nair (1 January 1984). 日本がアジア各国を侵略したことを認めず、「自存自衛」の戦争であったと言い張る人々にとっては、中国の南京大虐殺も、シンガポールの「大検証」(中国系住民を対象とした虐殺)も、ベトナムの飢餓も誇張か、日本軍兵士の「部分的な行き過ぎた行為」にすぎません。 in: Journal of Contemporary Asia, Volume: 34 Issue: 4 (November 1, 2004), p 481, 《对越自卫反击作战工作总结》Work summary on counter strike (1979–1987) published by The rear services of Chinese Kunming Military Region, アメリカ軍が撤収時に置いていったM41やM48が中越戦争で実戦使用された記録はないが、M113兵員輸送車や. Liên Xô "chia lửa" với Việt Nam trong chiến tranh biên giới thế nào? 越南民国臨時政府, 人物 ゴ・ディン・ヌー December 25, 2000. http://content.time.com/time/world/article/0,8599,2054325,00.html. William S. Turley, Jeffrey Race (1980). 中越国境紛争 "The Third Indochina Conflict". ちなみにベトナム独立戦争には、一部の旧日本軍が参戦しており、ベトナム独立の手助けをしております。 フランスの植民地支配下に戻ったベトナムでは、700人から800人の日本兵が残留するとともに航空機や戦車をはじめとした兵器が残され、ベトナム独立戦争中の1946 70–186. 自国の安全を確保する … "China-Vietnam pact signed". p. 20. pp. The Cambridge History of China. Routledge. Routledge. ここを訪れる日本人は「日帝侵略館」では無く「バ韓国人ベトナムでの狂気の蛮行館」と理解するべきだろう。 ベトナム戦争で韓国軍や韓国人軍属は、この蝋人形館の内容よりも残酷な、強姦や拷問やをやっていた事が広く知られるようになってきた。 Sino-Soviet Relations and the February 1979 Sino-Vietnamese Conflict, https://www.foreignaffairs.com/reviews/capsule-review/1996-09-01/soviet-union-and-vietnam-war, https://www.recordchina.co.jp/b83512-s0-c10-d0054.html, “Xi Jinping mourns 'China's great friend' Sihanouk”, https://www.scmp.com/news/china/article/1062009/xi-jinping-mourns-chinas-great-friend-sihanouk, https://www.news24.jp/articles/2011/06/20/10184863.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=中越戦争&oldid=79587099, この項目では、中国とベトナムの戦争について説明しています。戊辰戦争の1つである新潟県中越地方での戦いについては「, 高野功『三月七日、ランソンにて―「赤旗」ハノイ特派員高野功記者の記録』 1979年 新日本出版社, 『MC☆あくしず Vol.43』 ワールドバトルフィールドサテライト(印度洋一郎、P83~P91) イカロス出版 2017年2月1日発行. pp. この項目「1945年ベトナム ... 人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40 万とされている 。 原因. エントランスへはここをクリック; 地図に見る日本の侵略 (太平洋戦争編)Invasion of Japan(Map) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 2017年10月10日公開 Dec.31, 2017 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 <関連サイト> 日中戦争(地図) 日中戦争(資料) 太平洋戦争(地図) 太平洋戦 … O'dowd, Edward (2007). 戦後70年を迎える今夏、『ありがとう日本軍』を上梓した井上和彦氏。「一度も、1人たりとも、日本軍を悪し様に語る方に出会いませんでした」。世界中をその足でまわった井上氏が、今、伝えたいこと … "The Third Indochina War". Strategic and Defence Studies Centre, Research School of Pacific Studies, Australian National University. これに加えて、太平洋戦争終結六十周年を機に、日本軍の侵略・占領による被害を改めて思い起こす企画も各国で取り組まれています。 シンガポ July 1981. p. 15. pp. Mother Jones Magazine. Jonathan Luxmoore (1983). バオ・ダイ Joseph Y.S. Foreign Policy (38): 92–116. Vietnam: The Dilemmas of Reconstruction. 南ベトナム共和国 Routledge. p. 181. ゴ・ディン・ジエム "China's tightening relationship with Cambodia". Chinese Military Strategy in the Third Indochina War: The Last Maoist War. マダム・ヌー Edward C. O'Dowd (16 April 2007). 中国側は37~45年の8年に7つの根拠地が受けた被害だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊…が失われた」(『日本侵略軍在中国的暴行』軍事科学院外国軍事研究部編著)としています。 447–449. 韓国は「他国に侵略したことなどない」といいます。 韓国。歴史上他国を一度も侵略したことがない世界一平和な国。1910年、突如日本帝国は武力で韓国侵攻しました … Bernard K. Gordon (September 1986). ホー・チ・ミン ベトナム戦争は、アメリカの侵略戦争だといいますが、それをいうなら北ベトナムはどうなのですか。北ベトナムのやったことも南ベトナムに対する侵略ではないのですか。攻め滅ぼしたわけですから。パリ和平協定では、無期限の戦闘停止を南 Cheng "Challenges to China's Russian Policy in Early 21st Century." Cambridge University Press. BBC News. ノン・ドゥック・マイン 20–21. Mother Jones (1983). やはり本当の原因は日本の侵略にあるのかもしれません。 考えられる飢饉や餓死の原因は・・・・ 1 日本軍による米の強制供出. ドイモイ p. 4. ヴォー・グエン・ザップ レ・ズアン ベトナム“200万人”餓死の記録―1945年日本占領下で作者:早乙女 勝元メディア: 単行本 ・ ・ ・ プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ ・ ・ 【東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博】・ 独立派ベトナム人は、祖国をフランスの植民地支配から独立させる為に日本軍に協力していた。 The People's Republic, Part 2. スプラトリー諸島海戦, 「国家」 MacFarquhar, Roderick (1991). ベトナムは常に日本の最良の友であり、日本が不実である時さえ友情を裏切らなかった。 文永・弘安の役に敗れてもフビライ汗はまだ日本侵略の機会を狙っていた。 しかし、その侵略の試みを頓挫させる大事件が元の南方国境で起こった。 ベトナム救国の英雄チャン・フン・ダオ ベトナム共和国 中越戦争 中国軍の進路 戦争:第三次インドシナ戦争 : 年月日:1979年2月17日 - 3月16日 : 場所:ベトナム北部 : 結果:* 中国人民解放軍がベトナム北部を占領したのちに撤退。. ファン・ボイ・チャウ ISSN 0362-8841. ベトナム社会主義共和国 ☆日本本土への米の輸出. グエン・タイ・ホック ベトナム国 ベトナムからの輸出量は 1940年47万トン 1941年59万トン 1942年97万トン 1943年100万トン 1944年50万トン 1945年4万5千トン 注:1945年は戦況悪化 … Modern Chinese Warfare, 1795–1989. なお次の様な場合、目的の達成後に撤退し開放したときに限り、「侵略では無かった」とされる事がある。 1.1.1. 3回目の日本侵略前に、ベトナム軍がモンゴル帝国の水軍をたたきのめしたことも要因の一つとなり、日本侵略計画が消えました。 ベトナム軍がモンゴル帝国を破ったのが、1288年白藤江(バック ダン ザン Bạch Đằng Giang)の戦です。 ベトナムはカンボジア占領継続(~1989年) 中越国境は1990年まで緊張状態。 日本軍の敗北後、インドネシアに再侵略したオランダ軍は、インドネシア人が武器を持って組織的に抵抗してくるとは思っていなかった。果敢に抵抗するインドネシアを見てオランダ軍は「日本軍のせいでインドネシア人は従順な羊から虎になった」と、日本軍に対する憎悪を募らせた。 イン� 国家や団体が別の国家や団体に、自衛の目的ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すこと。 1.1. (1982) "The Political Influence of the Soviet Union in Asia" In Zagoria, Donald S. (editor) (1982) Soviet Policy in East Asia Yale University Press, New Haven, Connecticut, page 71. ベトナム民主共和国 日本ファシストのベトナム侵略 11 フラ ンス ・日本支配下 のベ トナ ム社会 グエンチャン・フイ・リエウ ・ ルオン ・ピ ック グエン ・ カック ・ ダム 編. Elleman, Bruce A. Storey, Ian (April 2006). 侵 略 (しんりゃく 「侵掠」の「同音の漢字による書きかえ」) 1. グエン・ミン・チェット 歴史の教科書の中で 日本が宣戦布告したのは、アメリカ・イギリス・オランダの国しかしなかった様な気がするのですが、タイ国には了解済みで進駐したし、ベトナム?にはフランス(ビシ-政権)許可をもらって進駐したとおもいます。日本 JSTOR 1148297. (2001). Chinese Military Strategy in the Third Indochina War: The Last Maoist War. Institute for the Study of Conflict. Far Eastern Economic Review. 1945年ベトナム飢饉(1945ねんベトナムききん)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。, 天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。, 死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万とされている[1]。, 飢饉の原因ははっきりとは判明していない。様々な要因が複合的に関連したとされている。一大米作地帯であったトンキン湾デルタ地帯の1944年の収穫量が水害により激減したこと、連合国軍の戦略爆撃によって南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因として上げられる。また1944年の冬は記録的な厳寒になったことも死者を増やす原因となった[1]。, 日本の軍政は戦局の悪化に気を取られ有効な対策を取ろうとしなかった。フランス政庁は日本軍からの指示があったとして過分な収穫米を強制的に徴収した。これは日本軍への反感を強めるのが目的で、集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もある[1]。, ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えかけた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼[要出典]は失われ、ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった[1]。, 1945年8月15日の終戦時直後に日本軍が仏印処理により樹立させたベトナム帝国はヴェトミンにより打倒された。, vi:Nạn đói năm Ất Dậu, 1944-1945 20:05, ngày 3 tháng 2 năm 2011, ベトナムの1村落における1945年飢饉の実態--タイビン省ティエンハイ県タイルオン村ルオンフ-部落に関する日越合同調査報告, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=1945年ベトナム飢饉&oldid=80002336. Scalapino, Robert A. China Shows How to Bury It". Foreign Affairs (Fall 1986). ASEAN-Indochina relations since 1975: the politics of accommodation. グエン・タン・ズン ベトナムには豊かな歴史があり、それはキリスト生誕前までさかのぼります。ベトナムの国は南北に長く、歴史も北部・中部・南部で大きく異なっています。しかし、今回はフランスが関わってくる1850年代~ベトナム独立までの歴史を紐解いていきましょう。 China Brief. Robert A. Scalapino "Asia in a Global Context: Strategic Issue for the Soviet Union," in Richard H. Solomon and Masataka Kosaka, eds., The Soviet Far East Military Buildup (Dover, MA., Auburn House Publishing Company, 1986), 28. p. 297. French, Howard W. (March 1, 2005). グエン・フー・チョン, 1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結させ威圧を開始。2月15日、中国共産党最高機関の中央委員会副主席の鄧小平は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表することをもって宣戦布告を行う。, 次いで2月17日、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃を行った後、ラオカイ、カオバン、ランソン各市街の占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。, 中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。, この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、とくに西部には第316歩兵師団、第345歩兵師団を中心とした正規軍2個師団ほど(約2万人)と民兵しかいなかったが、西部に限らずこの民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力退役兵を再集した部隊であったために、実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も確保していた。そればかりでなく、旧南ベトナム政府軍やラオス内戦当時の右派ミャオ族から接収したアメリカ製兵器(M16A1アサルトライフル、M101 105mm榴弾砲、M114 155mm榴弾砲、M113装甲兵員輸送車、M41ウォーカー・ブルドッグ、M48パットン、UH-1 イロコイ汎用ヘリ、F-5 フリーダムファイター軽戦闘機、A-37 ドラゴンフライ軽攻撃機、A-1 スカイレイダー攻撃機など)の大半も使用可能であり、正規軍に匹敵する精鋭が揃っていた。, 中国人民解放軍は、国産の62式軽戦車とT-54中戦車をライセンス生産した59式中戦車を主力にベトナム各地に侵攻したが、ソ連から供与されたRPG-7対戦車ロケット砲や9M14対戦車ミサイルといったベトナム軍の対戦車兵器により多数が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために、人海戦術を用いてさえ歩兵を進めるのは困難だった。, そのため中国軍は軽戦車から69式戦車といったMBTまでを投入し、地域によっては山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲や火炎放射器で攻撃した。, 文化大革命の悪影響や兵站等の準備不足に加え、初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(例えば第3歩兵師団ではソ連製の122mm長距離榴弾砲(M-30かD-30と思われる)を使用していたことが確認されている)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固で、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は対砲兵レーダーをも使用した。, 対するベトナム軍は、兵力において圧倒的に勝る中国軍の背後機動を防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ後退する縦深陣地戦を多用した。, 中国軍はその後、主力を欠くベトナム軍の後退に合わせて進軍し、2月25日にカオバン、2月26日にラオカイを、3月5日にはベトナム東北部の要所ランソンを占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、野戦軍はその過程で大きな被害を受けており、支払った代償は多大であった。, 一方、ベトナム軍は包囲されることなくランソンから後退し、南方に約100km離れたハノイ郊外に構築された巨大陣地に入った。ハノイ市民も陣地構築を手伝い、軍とともに小銃や対戦車火器を抱いて陣地に入り、決戦の構えをみせた。, ランソンを中国軍が占領したその日の夜、ついにカンボジア方面に展開中だったベトナム軍主力が合流を開始し、ハノイ郊外の巨大陣地には5個師団が入った。ベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、直ちに中国中央軍事委員会は撤退を決定、翌日の3月6日の「ベトナムへの軍事的懲罰の完了」宣言とともに、中国軍に対して撤退を命じた。撤退を始めた中国軍に対してベトナム軍主力は追撃を開始するも、中国軍は占領していた省から撤退するにあたり、設備や家畜などを略奪し、住宅やインフラを徹底的に破壊する非人道的な焦土作戦を行い[14]、3月16日までにベトナム領から撤退した。, 当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの支援を受けて陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を開戦直後より維持していた。, 中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の自主開発をおこなってきた。例えば、当時中国軍の最新型戦闘機は 殲撃七型であったが、ベトナム軍ではMiG-21の完成型であるMiG-21bisが運用されていた。, 中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ殲撃六型、レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機は轟炸五型や轟炸六型であった。, 地上では、中国軍はT-54のデッドコピーである59式戦車や、それをスケールダウンした62式軽戦車が多く、ベトナム陸軍も関係悪化以前に供与されていた59式戦車と、そのオリジナルであるT-54やT-55が主力であり、旧式なT-34-85さえも使用[15]されていた。, 両国の戦果/被害報告が一致しないこともあり、世界各国では現在も中越戦争の結果についての分析が続いてはいるが、中国にとって本戦争は、ベトナム北部の一時的な制圧という政治目的こそ達成されたものの、純軍事的には悲惨な完敗に終わったとの見方が大勢である。, 戦争を取材した欧米の記者達は、中国軍がベトナム軍の縦深防御陣地に自殺的な突撃を行い大量の死者を出していると発信した[16]。, また、当時の人民解放軍はプロレタリア文化大革命の影響で階級を廃止しており、複数の部隊が合流したり共同して戦闘を行う際にそれぞれの指揮官の序列が曖昧になり、混乱をきたした。, また、指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮が不能になった時に、代わって指揮をとる次級者の序列が存在せず、指揮命令系統が崩壊する例が多かったと言われる。, 中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていたにもかかわらず、自国の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかった。, この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。, 一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。, ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線であるドイモイ体制が始まって、1989年9月にようやく撤収した。, 毛沢東死後の権力闘争を争っていた鄧小平は朝鮮戦争以来の大規模なこの戦争を主導したことで確固たる権力基盤を確立したとされる[17]。また、再び中国に亡命してきたノロドム・シハヌークを保護し[18]、シアヌークにポル・ポトおよび親米右派のソン・サンとの共同戦線を強いたことで設立させた民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を支援することにより、ベトナムの影響力伸長を嫌っていたASEAN諸国と中国を関係改善させることに鄧小平は成功した[19]。また、中国はフルロなどベトナム国内の少数民族による反政府活動を支援した[20][21][22][23][24]。, これらにより中越の緊張関係は続き、1979年から1989年にかけては中越国境紛争や赤瓜礁海戦などが引き起こされ、敗れたベトナムは、中国にとって有利な条件での国境線画定を余儀なくされた。, しかし、1989年には、カンボジアに派遣されていたベトナム軍に対し、ベトナム共産党書記長のグエン・ヴァン・リンは撤退を命じた。これはCGDKを支援してきた中国やASEAN諸国との関係改善の糸口となった。, 1990年9月3日、リン書記長はドー・ムオイ首相、ファム・ヴァン・ドン元首相と共に、秘密裏に中国の四川省成都市を訪問し、江沢民総書記と会談した。, この訪問は、中越戦争以来初めてのベトナム指導者の訪中であり、中越戦争時の捕虜交換や国境地帯の非武装化など国交正常化の基本条件で合意することとなった[25]。, 大陸国境線は2000年代に入って画定したが[26]、西沙諸島および南沙諸島の国境線は画定されておらず、領有権を巡って領土問題は残されており、双方の武装船が相手方漁船を銃撃する事件がたびたび起こった。, 2011年に入ると南シナ海で両国の対立が激化し、6月には南沙諸島の周辺海域においてベトナムの漁船が中国軍艦艇から銃撃を受ける、ベトナムの石油探査船の調査用ケーブルが中国の海洋監視船に切断されるなどの事件が頻発した。, また、同海域において中国軍、ベトナム軍が共に大規模軍事演習を行うなど緊張が高まっている。, 一方ベトナム国内でも、思想や表現の自由がない共産党政権下では異例の大規模反中デモが度々認められるなど、国民の間でも反中感情が高まっている[27]。これらの事情からベトナム政府は1979年以来となる徴兵令を発令して、アメリカ軍との合同軍事演習も予定している。, 多数の第四世代戦闘機をはじめとした膨大な戦力を有する中国人民解放軍との戦力格差は歴然としており、ベトナムと中国との微妙な緊張関係が続いている。, 日本共産党の機関紙赤旗のハノイ特派員だった高野功が取材中に中国兵に銃殺されてこの戦争で唯一の日本人犠牲者となっており[28]、ランソンでは高野功の記念碑が現地のベトナム共産党委員会により管理されている[29]。. グエン・カオ・キ The New York Times. "Was the War Pointless?